その瞳を忘れない

飛影さんの雑な手当を解いてやり直す間、彼は一言も文句を言わなかった。
深い傷に薬草を塗り込んで、心霊医療で傷を塞ぐ。その上から肩から胴にかけて斜めになるように包帯を当て直した。
(できましたよ!)
彼はお礼こそ言わないものの、ふんと満足そうに鼻を鳴らした。及第点といったところだろうか。


ふと観客席を見上げると、そこにいた鴉と目が合った。
どうやら戸愚呂弟さんと一緒に観戦に来ているようだ。
まるで吸い寄せられるように視線を向けてしまった、そんな何気ない偶然もなんだか恐ろしくなってくる。不安定な足場にいるような、自分が根底から揺さぶられてしまうような気持ちになるのだ。一瞬とはとてもいえない時間、彼を見ていた。
彼も、こちらを見つめていた。
その緊張からなんとか視線を引きはがせたのは実況の女の子が声を上げたからだ。
《第3戦、蔵馬VS裏浦島選手!!》
「!!」
漸く動かせた視線を向けると、蔵馬さんはピリと身体を緊張させ、円闘場へと上がっていくところだった。相手は小柄な男性だ、裏浦島という名前そのままに、浦島太郎のような装いをしている。
蔵馬さんは鞭を使い、相手の方は釣竿を使うらしい。仲間としての欲目だろうか、単純な技術勝負であれば蔵馬さんが負けるはずないとすら思っていたが、両者は互角に武器をしならせる。蔵馬さんの悪い癖だという“相手の出方を見る”というやつなのだろうか。
長い獲物が風を切る音とそれらが火花を散らす音の合間に、微かに声が聞こえた。
「──あんたに頼みがある……オレを……殺してくれ」
(えっ……!?)
傍から聞き耳を立てていた私ですら驚くのだから、渦中の蔵馬さんの驚きはこの比ではない。一瞬、ほんのわずかにだけ反応をした蔵馬さんに、裏浦島さんは攻撃を続けるように促す。会話しているのを誤魔化すためのものだ。
そのまま彼は蔵馬さんに八百長を持ちかけた。自分はお伽噺の非業の運命に満足している、だから自分の合図でオレを殺してくれ、と。
(そんな……)
蔵馬さんは鞭を叩きつけながら、その提案に返事をする。負けさせることには了承するが、殺しはしない、と。
「存在理由が変わっても生きていけるさ、オレがいい例だ」
「……あんた優しいな」
今の蔵馬さんのことも正しく把握できているとは思えないが、かつての蔵馬さんのレゾンデートルは一体なんだったんだろうか。たしか、妖狐なんだったっけ。いまのところあんまり狐感は無いけれど。
裏浦島さんがわざと見せた隙に、蔵馬さんがムチを打ち込む。
しかし、裏浦島さんはその鞭で傷つく事は無かった。素早く避けて、変わりに蔵馬さんの身体に裂傷が走る。
(蔵馬さん!!)
約束が違う、どうして。見れば裏浦島さんは笑いすぎて涙が出るといった様子だった。
「こうもカンタンに信じるとはなァーーこいつ!!あんたの人の良さは致命的だぜ──ボケナスがよォオオ!!」
(あいつっ──!!)
心底楽しそうな男の笑みにカッと頭に血が上る。全部嘘だったのだ。蔵馬さんの優しさにつけこんで、彼を騙した。蔵馬さんの手から奪った鞭を切り刻み、唇を歪めて笑う。
「邪から生まれたオレ達に改心なんて概念ねーんだよ」
続けざまの釣竿の軌跡を、蔵馬さんは体勢を整えながら避けるが、なにかに気づいて動きが止まった。
細く長い糸が、円闘場を囲むように張り巡らされている。蔵馬さんと裏浦島さんと樹里さんだけが、その陣の中に居た。
《なんと、円闘場に糸が張り巡らされています!!おっと、気づかぬうちにここにも針の一端が……》
「強力な妖具を使えば瑠架程度の結界はオレにも作れる。あんたもう逃げられねェぜ──裏御伽闇アイテム逆玉手箱!!」
裏浦島さんは背負っていた荷物をおろし、箱を取り出す。
「物語では箱を開けて主人公のやつが年をくっちまったよな、これは逆に若返る、オレ以外のヤツがな……。オレはオレより顔が良くて背が高い奴が大嫌いでなァ、なぶり殺すときにはいつもこれを使う」

「裏浦島さんより背が低くて顔が良くない人なんてそうそういないと思う……」
「フン、お前の兄がいるだろ」
「お兄ちゃんは背が高いし顔もあの人よりずーっとマシなんだけど!!」
私のつぶやきに飛影さんが反応して、中の会話がわからないお兄ちゃんだけがキョトンとしている。しかし己の容姿がとぼされたことはほどなく理解して、苦々しい顔に変わった。私は渋くて男らしくてお父さんに似てて好きなんだけどなぁ……。

「ところであんた、その名前変えた方がいいぜ。ひとり、同じ名前の妖怪を知ってるがそいつはオレ以上に悪党だった…間違えられたことねェかい?」
裏浦島さんの問いかけには蔵馬さんは答えない、ただいつものように冷静な瞳がじっと相手を見据えている。
「………目つきだけはそっくりだぜ……ますます気に入らねェ〜〜〜。てめェは胎児にまで戻してやるぜ!!グチャミソにつぶしくさってくれるァ──!!」
開かれた玉手箱からブワと煙幕が漏れる。まっ白い煙はどんどんと円闘場を覆っていき、あっという間に中の光景が見えなくなってしまった。
(蔵馬さんっ!)
みるみるうちに蔵馬さんの妖気が小さく弱くなっていく。このままでは、蔵馬さんは消えてなくなってしまうんじゃないか。
胎芽の蔵馬さんを想像して身震いする、そんなことになってしまったらいくら蔵馬さんだと言っても俎上の鯉だ。その妖気がふつりと途切れ、次の瞬間────
「っ…!?」
──視界が急に低くなった。気づいたら、へなへなと膝が地面に付いていたからだ。右手のミサンガがカッと熱くなって、しゅるりとその茎を伸ばす。慌てて押さえても伸長はとまらずに、添えた左手にも植物が巻きついた。
(いやっ……なにこれっ!)
なんとか霊力で抑えつけて、それが伸びるのを止めた頃、ざわめく観客達の声を縫うように円闘場から震えた声が聞こえた。裏浦島さんの声だ。
「な、なんだ!?このおそろしいほどの妖気はーー!?たっ、確かに奴は胎児以前にまで…」

「────… まさかまた…、この姿に戻れる日がくるとは…………妖狐の姿にな」

蔵馬さんでも、裏浦島さんでもない、知らない声がした。冷たくて低い、人を嘲るような口調の、知らない男の人の声。
「ま……まさか、妖狐〜〜!?じじじじゃあ、あ、あんたがっ……伝説の極悪盗賊妖狐蔵馬──!!」
(妖狐……蔵馬?)
一体中で何が起こっているのか、私の知っている蔵馬さんはどうなったんだ?
「さあ、おしおきの時間だ。オレを怒らせた罪は重い!!」
男の声に呼応するように、左手の中の植物がふるりとうねった。


「し、信じらんねェ、一体このどぎつい妖気はどっちのモンなんだ!?」
「フン、蔵馬の妖気に決まっているだろう。多分あのマヌケが闇アイテムとやらで呼び出してしまったんだろう。南野秀一とひとつになる前の蔵馬をな」
「あ、あれが蔵馬の本来の妖気だってのか!?」
「まさかこれ程の妖力だったとはな、一度手合わせ願いたいもんだぜ」
「お、おまえは〜〜」
私はへたりこんだままお兄ちゃんに共感した。どいつもこいつも強さへの執着が強すぎるんだから……。
右腕の植物は私の肘まで巻きついてどうにか止まった。これではもう引きちぎるどころではないだろう。いよいよこの植物がいったいなんなのか気になる。シマネキ草的な寄生植物だったらどうしよう。肌に根をはろうとしていないだけマシだけれど。
どうやらこの魔界植物のミサンガは、喚び出した蔵馬さんの異変に同調しているらしい。

円闘場の様子は煙幕に包まれて何も見えない。審判の樹里さんからも、先程から怯えたような小さな声が届くだけだ。
「さて…どう料理してくれよう」
私には蔵馬さんだという男の声が聞こえるけれど、何が起こっているのかわからない。彼が“こいつに喰わせることにするか!!”と言ったけれど、どいつのことなんだろう。更に耳を凝らしたけれど、なにかがメキメキと動く音しか聞こえない。
しかし余程おそろしいものを見せられたのか、裏浦島さんは震える声で叫んだ。
「あひゃひゃ!!たったっ助けてくれ!!なんでもする、命だけはァ──!!」
「なら話せ、このケムリの秘密はなんだ?」
「オ オレは知らねェ!本当だ!!死々若丸にもらったんだ、奴が知ってるはずだ!!」
名前が上がった死々若丸さんを見ると、ぴくりと目線を揺らしていた。その手が彼の刀に伸びる。
(ちょっと──!?)
止めるまもなく、その刀は円闘場へと投擲された。障子紙を破るようにいとも簡単に結界を裂いてしまう。裏浦島さんの悲鳴が聞こえた。それから、小柄ななにかが倒れる音。その悲鳴が裏浦島さんの断末魔の叫びであったことは、易易と予想がついた。
(口封じ……?)
これ以上彼に話されるのはよほど都合が悪いようだ。仲間に対して、なんてことを。
《し、死々若丸選手の刀によって結界が破られました!!し、しかしそこに現れたのは一体──!?》
煙が消えてゆき、円闘場の上には三人の姿があった。裏浦島さんだったらしい獣の姿と、小さくなってしまった樹里さん。
そして。
「……くら、ま、さん……?」
────美しい。
そこにいたのは、美しい男だった。蔵馬さん……南野秀一さんよりも幾分か背が高い。切れ長の瞳は冷たく、しかしギラギラと輝いている。背筋が凍るほど美しい男。
銀の髪に、それと同じ毛並みの耳と尾、その耳がぴくりと揺れて、彼は瞳だけでこちらを向く。
向けられた瞳は金色だった。目が合った瞬間電流が走ったように背筋が凍る。座ったままでよかった、立っていたら倒れていたかもしれない。
一瞬だけかち合った瞳は、しかし次の瞬間にはいつもの色に戻っていた。煙の効果が切れたのだ。めちゃくちゃかわいい小さな男の子の姿を経由して、よく見知った男子高校生の姿に戻る。逸らされた瞳は、そのまま死々若丸さんへと向けられた。
「役立たずの上裏切りか…、まあ…幻魔獣程度があの妖気を見せられてはしかまあるまい。さあ、試合を続けようか、人数も3対2、おもしろくなってきた」
私は腕の中のミサンガではなくなったものを見た。いつのまにか茶色く枯れ果てていたそれは、指が触れただけでぼろりと崩れた。