殺伐日和

夢を見た。
中学生の頃の、まだ髪の短い蔵馬さんが出てきた。
飛影さんとの出会い、そしてとあるクラスメイトとの決別。
消してしまった想いの話。


哀しい夢だった。起きてからも引きずってしまうような。
ぼんやりとする私に幽助は「生理か?」なんて笑う。およそ主人公とは思えない言動だ。ため息をつくと、「おこった?おこった?」なんて煽ってるんだか心配してるんだかわからないことを言ってくるので、曖昧に笑っておいた。
昨日、蔵馬さんと真面目な話をしたから引きずってしまったのだろうか。夢で見たあとだからわかることだが、これは漫画で描かれていた話だ。この世界でいうところの実話。蔵馬さんの過去だ。
朝食を食べると、飛影さんはどこかへ行ってしまった。兄と幽助は組み手をしにいくという。蔵馬さんは敵情視察。
残ったのは私と幻海師範だった。

「……なんだか、もの言いたげだね」

私の視線に気づいた幻海師範はうんざりといった口調で言う。
昨日、医務室帰りにしつこくお願いして心霊医術を教わったことで疲れたのだろうか。おかげで、昨日はすこしだけでも役立つことが出来た。

『戦い方を教わりたいんです』
「ダメダメ。あんたみたいな半端なやつはそんなもん覚えない方がいい」

ホワイトボードを掲げて抗議するが、師範の意見は頑として変わらない。しかし、私だって引き下がれない。少しでもみんなに迷惑をかけないようにしたいのだ。

「あんたのことだからね、どうせ周囲に迷惑だからとか思って言ってんだろうが、そんな気持ちじゃ強くなれっこない」
(うっ!)

完璧なタイミングで決まった綺麗な図星だった。師範ほどになると心が読めるのだろうか。

「第一、あんたの霊力はそこそこ強いが、戦うのには向いてない。あんたには戦いの才能が無いんだ。努力では補えないくらい。それは前にも話したろう」

そう、わたしが初めて幻海師範のところで教わった時にも言われたのだ。
私の霊気は質が特殊で、攻撃には向いていない。例え威力をこめて霊丸を撃ち込んでも、それは勢いを保ったまま物質を通り抜ける。つまり、攻撃が当たらないのだ。私はこれをトリップ特典の1種(特典というには完全にデメリットだが)だと認識しているけれど、さすがにそう説明しても誰にも納得してもらえないだろう。
その特質にどうにか普通の霊気を装わせつつコントロールする、かつてはそんな方法を教わったのだ。

『じゃあ、もっと高度な心霊医術とか』
「高みを目指す前にまず今の術を磨きな!」

正論で一蹴だ。落ち込む私に師範は深く深くため息をつき、諦めたように言った。

「かなりきついことになるけど、いいかい?」

チャンスを逃さぬよう頷くと、取り返しのつかない過ちを起こした子供を見る目で、師範は私を見た。

「……あんたに丁度いい技を教えてやる」


言われるがままについてきた森は深く、確かになにかしらの特訓にはちょうどよさそうだった。
途中お兄ちゃんと幽助に会い、師範は幽助に霊丸についての忠告を下す。お兄ちゃんたちは、覆面さんの声が若い女性であることに驚いているようだ。
そんな彼らを一瞥して、師範はさらに木々をわけ行って人気のない場所へと進んでいく。

『腕が使えない誰かって?』
「消去法でわかるだろう。まったく、どいつもこいつも無茶苦茶だね」

つまりは、飛影さんのことだろう。そんなことになっていたなんて、全く気づかなかった。

「あれに関しちゃあとでちょうどいい術を教えてやるよ。さて、まずはあんたのことだ。」

少し開けた所で立ち止まり、師範は私に振り返る。私は歩みを止めて師範に向き直った。

「人間の身体ってのは足りない機能を補うように出来てる。目の見えないやつが耳がいい、みたいな話聞いたことあるだろ」

テレビとかでたまに見る話だ。視覚情報に頼れない分、ほかの器官の情報をより活用するようになる。
五感に限った話ではない、腕が使えない人が口でペンをくわえて絵を書くとか。人間は自分の身体を活用してできる限りのことをしようとする。

「あんたは今、喋れない一方で目と耳が良くなってる。口で助けを呼べないから、視覚と聴覚でより周囲を警戒するようになっている。あんた、昨日の蔵馬と呂屠の会話が聞こえてたね?」

昨日の、というと呂屠さんが蔵馬さんを脅迫していた時のことだろう。たしかに、聞こえていたけれど。

「あんたの兄は聞こえていなかった。それが本来正しい人間の姿だ。それに、鈴駒やら酎やらの試合のときも目で追えていただろう。あれはあんたみたいな素人が見れるような動きじゃない」

確かに、昨日の対戦は結構見届けるが出来た。さすがに飛影さんの残像を作るほどのはやさには視覚も理解も追いつかなかったけれど、大半を見届けられたこと、それ自体が異常だったのだ。

「あんたの耳は武器になるよ。上手く行けば、飛影の邪眼のように本来は見えないはずのものまで把握できる。あんただけの強みだ、死ぬ気で鍛えな」

そうして、数年ぶりの幻海師範の特訓が始まった。


耳が痛い。血が出てるんじゃないかと何度か指を突っ込んだが、そんなことはなかった。鼓膜が破れてるんじゃないかとも思ったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。鼓膜どころか脳が破れそうだった。耳おさえても激流は止まらず、
のたうち回っても頭痛は消えない。何度か吐いたかもしれない。

「明日までに完璧に調整しな」

そんな幻海師範の声も、うまく聞こえなかった。聴こえすぎて、聞こえなかった。
無理やりかっぽじられた耳の穴は、木々のざわめきも、草の波打ちも、虫の声も、鳥のさえずりも、獣の鳴き声も、お兄ちゃんたちの会話も、森の中で点々と特訓する妖怪達の息遣いも、試合会場の歓声も、ホテルの客のおしゃべりも、スタッフの業務連絡も、厨房のシェフの怒声も、どこかで噴いたヤカンの笛も、岩礁に打つ波音も、ヘリコプターの羽音も、誰かが新聞をめくる音も、私の心臓の音も、どこかの子供の泣き声も、誰かのプロポーズも、グルメレポーターの大袈裟な喋りも、池で鯉が跳ねた水音も、ジェット機の離陸も、タクシーの無線も、救急車のサイレンも、お金の無心をする息子の声も、障子紙が破れる音も、猫の鳴き声も、誰かの骨の折れる音も、大砲が撃たれる轟音も、ガラスが割れる音も、船の汽笛も、流星を見た女性の願いも、幼稚園児のお遊戯の曲も、レンジのチンの音も、バスの乗車案内も、カエルが踏み潰される音も、ダイヤルアップ接続音も、上司が叱責する声も、誰かが屋上から飛び降りる音も、それを見た少年の悲鳴も。
全部聞こえていた。全部が滅茶苦茶に出された絵の具のように混ざりあい、判別できない真っ黒な色が頭の中に叩き込まれる。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
情報量の多さに頭が割れそうだ。パンパンに空気が詰まった風船に、いっそだれか針を指してくれないか。

「絶海の孤島でそれ《こちらはリサイクル》なんだ。街に戻ればどうな《らなくなったテレビ、音が出なく》るかわか《ご家庭の》るね《コンポ》」

どこかの廃品回収車の放送に混じり、師範の声が聞こえる。
むりむりむり。死んじゃうよ。

「なら、さっさと慣れる《防災放送で》ことだね。遠くのものも近くのも《86歳の男性が》のも、上手くえ《ママー!!!》り好んで《見さ》聞き《れました》わけな」

まるでお寺の鐘を被らされて、外からガンガン叩かれているようだ。耳から脳の汁が出そう。開きっぱなしの口から唾液が垂れる。またこみ上げて、何かを吐いてしまった。顔中、涙や鼻水や色んな体液でぐちゃぐちゃだ。みずがほしい。そんなものない。
騒音で何度か気を失い、騒音でまた叩き起こされる。朦朧とした時間は永遠のように覚えた。
(うっ…うああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!)
自分に叫び声が無いことが、今だけは有り難いくらいだ。さらに轟音をひとつ追加されたらたまったものではない。どうにか、近い場所の音を。本来聞こえる分だけの、必要な分だけの情報をつかみ取らないと。本当に脳が破裂しそうだ。いつまでだって苦痛が続く。それはいやだ。
カメラのピントをあわせるように、顕微鏡の視野を調整するように、けれどプレパラートを割らぬように。ひとつひとつの手順を持って本流する聴覚情報を選別する。手順はきっと、本能が知っていた。
すごくくるしい。


(っはぁ……はぁ、はあ、はあっ……)

気付けば、日は暮れていた。星が見えたから、自分が仰向けに寝転んでいることが分かった。
自分の息遣いと、森特有の草木や生物のざわめきを飲み込んだ静寂。傍に立つ師範の「なんとか様にはなったね」という声が聞こえた。
「しばらくは使いこなせないだろうが、それで一応土壌はできた。あんたにしてはよく耐えたね」
耳から頭にかけての激痛はもう消えていた。身体はぐったりとしているが、まるでマッサージをしたあとのように頭が軽い。耳汁として脳が流れ出たんじゃないかと一瞬危惧したけれど、そういうわけじゃないようだ。そもそも耳からは血ひとつ出ていない。涙と鼻水と嘔吐で顔はぼろぼろだけれど。服ものたうち回って汚れているけれど。口の中は胃酸と土でとてもまずいけれど。

このままの姿ではとても部屋には戻れない。お兄ちゃんたちが心配するだろう。
監禁されていたほうの部屋の方で身体を清めようと思ったが、師範はついてきてくれないようだった。
エレベーターにいたホテルマンはなにひとつ驚いた顔をせずに、平然と私を乗せた。躾が行き届いているのか、妖怪闊歩するホテルで働くのは並の神経じゃないらしい。
久方ぶりの部屋は、まだ自分が生活していた頃の気配が残っていた。
シャワーで身体を洗い流し、バスローブを巻く。ドライヤーをあてている間中ずっと自分を観察したけれど、微かな擦り傷があるだけで、それ以外はいつも通りの桑原だ。むしろあの苦痛で鍛えたという聴力すら、そんなの嘘だったんじゃないかというほどいつも通りだ。これなら少し転んだといえば心配はされないだろう。お兄ちゃんに、これ以上わたしのことで気苦労を増やしたくなかった。

いくつか残したままの服の服があっただろうと、バスローブのまま浴室から出ると。そこには人がいた。二ヶ月間みっちりそばにいた人が、居た。

(きゃっ!?)
「ほう、久しぶりだな」

鴉は、誰もいなくなったはずの私の部屋で、私のベッドの上で、悠々と私の本を読んでいた。


(どう、して)

「どうしてという顔だな。本来人の居ないはずの部屋に気配があれば、見に来るのは当然だ」

確かに、1度部屋から出ていったはずのわたしが戻っているのだ。様子くらい見に来るだろう。私が置いていったSF小説を閉じて、鴉は起き上がる。まるで実家のような雰囲気を醸し出している。

「左京がお前を補欠に据えるのは予想外だった。いずれ、お前と戦う日が来ると思うと浮き足立って今から殺し方を考えてしまうな」

なんてことを少しもウキウキしていない、いつも通り不吉な口調で告げる。

「いつまでそんな格好でいるのだ?着替えるのだろう」

いつまでもこの姿で居たいわけじゃないし、着替えが頭からすっとんだのは彼のせいだけれど。どうせ反論できないので諦めて服を探す。クローゼットに残したいくつかの衣服から下着も含めて適当なものを選ぶ。
なんとなく、鴉相手に意識していると思われるのも癪なので、平然と選んでさっさとバスルームにひっこんだ。
着替えてバスルームから出ると、鴉は扉のすぐそばで立っていた。

(ひっ!?)
「まだ髪が湿っている」

そう言って私の腕を引き、鏡台に座らせる。彼はドライヤーを持ってきて私の後に立った。そのままスイッチを入れて温風をわたしに向ける。
されるがままで自分の髪の毛が彼によって乾かされるのを見ていると、鴉はやはり平坦な声でいつものように喋り出す。案外おしゃべりだから、私の合いの手がなくても彼は一人で楽しそうだ。

「やはり貴様は簡単に敵に首を晒すのだな。六遊怪チームにしても、あれだけ兄を痛めつけられたあとだというのに医務室で平然と話していた」

見られていたようだ。ストーカーかな?
確かに、試合中はあれだけ取り乱して敵として認識していた鈴駒くんも、それが終わればなんだかもう憎めなかった。仲間の首を吹き飛ばした酎さんとも、普通に会話をしてしまった。今だって自分にあれだけ冷たくしていた──むしろいまも、冷遇している鴉を相手に隙だらけだ。
わたしの敵意は長く続かないのかもしれない。それが生物として異常だと、鴉は責めたいのだ。

「お前は本当に、誰のことも相手にしていないな」

それは、確かにあるかもしれなかった。この世界が幽白の世界だと気付いてしまった以上、踏み込めなくなった領域がある。外せなくなった視点がある。それを知る前にはもう戻れない。もうわたしは、幽助さんに主人公補正を期待してしまうし、お兄ちゃんに準主役としての不安を感じてしまう。逆に、鴉や鈴駒くんや酎さんを憎み続けることができない。なぜなら彼等は敵キャラクターなのだから、ひどい事をしてくるのはあたりまえでしかない。敵対されることに諦めを持てる。だから、その時は逆上してもすぐに落ち着ける。感情の昂りを、あの人たちは敵キャラクターなのだから仕方ない、という理由で抑えられてしまう。
だけど、蔵馬さんの残忍な行為を見逃すことができない。それは彼に主人公側の人間として、無意識に正しい行為を求めているからなのかもしれなかった。勝手にそう分類して、勝手に期待して勝手に失望したのだ。我ながら身勝手で、合わせる顔がない。
ここにいるのはキャラクターじゃない、生きている人間……あるいは、妖怪なのに。

「桑原から逃げ続ければ、お前はいずれ何になるんだ?」

ドライヤーのスイッチを切り、鴉はコードを引き抜いて束ねる。そんな律儀で妙に所帯染みた姿がアンバランスだ。そうして、鏡に向き合ったままの私に後ろから腕を回し、人差し指の爪でチョーカーの石をコツンとつついた。

「この呪いをかけたのはオレだ。上手くかかっているだろう」

くちなしの呪い。魂を縛り言葉を縛る複雑な呪い。

「こうなった今だからこそ、お前のことがよくわかるぞ。桑原でも、玉兎でもないお前が
「そろそろオレを見ろ。なぁ、××?」

この世界では誰も知らない、私の名前を彼は呼ぶ。
一番最悪な人に、一番知られてはいけないことを知られてしまった。