チェンジリング

「……寝ちまった、コイツ」

部屋に到着して幽助をベッドに寝かせた後、突然「が来てる気がする!」と叫んで桑原くんはドアを開けた。一瞬だけ小柄なあの少女が見えた気がしたが、すぐに桑原くんの背丈にすっぽりと隠されえ見えなくなる。部屋には、桑原くんの男泣きとちゃんの啜り泣く声だけが響いた。
妹を人質に取られた桑原くんの憤怒と憔悴は見ていて心配するほどだった。たしかに、もし母が同じように危険にさらされたら自分とて感情を揺さぶられるだろう。しかしオレの怒りは冷徹に向かい、彼の嘆きは熱血に向かうのだった。

「2ヶ月も引き離されて、消耗していたんでしょう」
「それもそーか……」

眠りこける幽助の隣のベッドに彼女の身体を下ろす。
2ヶ月前より髪が伸びているようだ。それ以外目立った変化はなさそうだった。特有の霊気は不安定に揺らいでいるが、以前倒れた時よりはずっといい。
紺のワンピースと、カボションカットの黒い石が付いたチョーカーがよく似合っている、その事実に胸が濁る。戸愚呂チームの者が買い与えたのだろう。彼女にぴったり似合うように。

桑原くんは妹の無事を確かめるように、ゆっくりと頭を撫でた。ちゃんの寝息は穏やかだ。ずっと気を張っていたんだろう。可哀想に。

「ん?なんだこれ」

ちゃんの手からこぼれ落ちた白い板を拾う。小さくて軽い、ホワイトボードだ。

「ホワイトボード……?なんじゃこりゃ」
「どうしてこんなものが……」

その最低の真相は、彼女が目覚めてから解き明かされることになる。


鈴駒という少年の侵入にも、是流という男の挑発にも気付かず、幽助とちゃんかすやすやと眠り続けていた。こうしてみるとなんとなく似ているふたりである。
ベッドが人数分しかないので、このままいけばちゃんと桑原くんは同衾かなと思っているところで、漸く少女は身じろぎをした。久しぶりの黒い瞳がまだ眠そうに開かれる。

「おう。お前寝るならもっと端行けよ」

自分が彼女を真ん中に寝かせたというのに。兄特有の乱雑さで桑原くんはちゃんをつつく。寝起きでまだ覚醒しきってないちゃんは眉を顰めてその指を掴んだ。
仲の良い桑原シブリングはそんなやりとりを何度か続け、とうとうあきらめたちゃんがのっそりとベッドから起き上がった。

「ほい、水」

ツーカーの仲であるところの兄はちゃんがなにもしゃべらなくとも必要そうなものを渡せるらしい。妹も当然のように受け取り、喉を乾きを潤した。

「腹減ってねえ?なんか頼むか?」

こくり、と頷く妹に彼はメニューを渡した。ちゃんは少しだけ物言いたげに兄を見上げたが、すぐに視線はメニューに落ちた。まだ落ち着かないのか、顔色がよくない。
兄は兄で、巻き込んだ責任を感じているのかちらちらと彼女の様子を伺っていることが、第三者の立場からはよく見えた。

「……なぁ、。なんもされてねえか?」

切り出された言葉に、ちゃんは再び兄を見る。桑原くんは気まずそうに顔を歪めていた。彼の2ヶ月間を見ていた自分としても他人事とは思えない。彼は本当に心配していたのだ。結界の中に居たらしく、飛影の邪眼を持ってしても見ることが出来なかったのだから。
ちゃんは少しも顔を曇らせずこくりと頷いた。幼気な女の子が2ヶ月も監禁されていて、すこしの恐怖も無かったなんてありえないのに。彼女は案外気丈である。ともすれば、どこか他人事のような雰囲気さえあった。
しかし、頷いた後でなにか思い出しらしく「あ」とでもいうかのようにぽかんと口が空いた。肝心の声帯は震えなかったようだが。

「な、なんかあったのかよ!」

詰め寄る桑原くんに、ちゃんは口を閉じて真剣な顔になる。瞳がなにかを探すようにうろうろして、寝台の端のホワイトボードを見つけた。
この頃にはもう、オレのなかでの符号は合致して一つの結論が導き出されていた。むしろもっとはやく気づいても良かったくらいだ。のんきな兄妹の雰囲気に飲まれていたのかもしれない。
──再会してから1度も、彼女の声を聞いていない。
怒って口をききたくないというふうでもないし、寝起きで喉が奮わないにしても限度がある。大事に持ってきたどこか不似合いなホワイトボード。どこか気まずそうな、もの言いたげな姿。

『こえがでないの』

真っ白なホワイトボードにひかれた黒い線は残酷な事実を告げる。

「はぁ!?なんだよそりゃ!!」
『口無しの呪いっていうのが、チョーカーにかかってて』

その声なき言葉に桑原くんは詰め寄る。チョーカーをぐるりと観察して「つ、繋ぎ目がねぇ……!」と叫んだ。本来アクセサリーに存在するはずの金具や結び目が存在しないのだ。

「ちょっといいかな」

ちゃんに許しをもらって触れてみるが、チョーカーは肌に張り付いたように動かない。指を入れる隙間もない。まるで生まれてからずっと、身体のパーツとしてそこにあったように。それはぴったりと馴染んでいた。刃物で切ろうとすれば彼女を傷つけてしまいそうなほどだ。

「んだよこれ!なんでお前がこんなことされなきゃいけねぇんだよ!!」
『大会が終われば外してくれるから……』

物凄い剣幕で怒る桑原くんに、ちゃんは困ったように笑った。きっと笑うしかないのだろう。彼女に責任はないのだ。

「口無しの呪い……古い術だな」
「蔵馬、お前解き方わかるのか!?」
「いや、かなり廃れた呪いなんだ。口を封じるだけのものなんて、そう使うものじゃないしね……ただ、魂ごと縛るものだったはずだ。無理に解こうとすると危険だ」

口無しとは、つまり梔子である。
主にアジア圏の花だが、可憐な姿はどこの国でも人気が高い。花言葉だってイメージのいいものが並ぶし、漢方薬にもなる。
しかし虫がつきやすいのだ。それに、別名でクチナワナシと言われるとおり、蛇のつく梨である。
女性に──主に花嫁や、良家の娘に悪いものがつかぬよう、言葉を縛る術こそが“口無しの呪い”だ。ただ乙女の魅力を封じてしまうためになら他にも手段は沢山あるし、魂を拘束する複雑で高度な術式なため、マイナーな呪術と言える。
ちゃんについては、言葉を縛る事はむしろ副産物であり、魂を縛ることが本命だったのだろう。人質は依然人質のままだという現実、その確固とした証代わりに声を奪う。悪趣味で卑劣な手だった。

「っくそ!!」

桑原くんはやり切れない衝動を壁にぶつける。握った拳がホテルの小奇麗な壁紙に叩き込まれた。大きな音でちゃんはびくりと肩を跳ねさせる。

「桑原くん、やめるんだ。」

理性で彼を止めるけれど、本心では止めたくなかった。やり切れない思いを封じたくなかったのだ。けれど。

ちゃんがどんな目に遭わされたのかはまだわからないんだ、怯えさせるのはよくない」

そっと囁いて、拳をおさえる。桑原くんは、悔し涙で潤んだ目を伏せておとなしく腕を下げた。脱力したようにソファに座り込む。
平気そうな顔をしているが、もし恐ろしいことをされていたとしたら、傷ついた彼女の心を刺激してしまう。実際、彼女はぎゅうと両手を組んで俯いていた。自分のことで誰かが怒っていれば、いつであろうと傷つくのは当然だ。

「……でけぇ声出してわるいな、
『大丈夫!ほんとに、これくらいしか大したことされてないから!』
「……本当に?」
『はい!勉強もできたし、身の回りの事はちゃんとしてたし!』

たしかに、彼女の着ている紺色のワンピースは上質で清潔だった。見える範囲にも外傷はなさそうだし。
けれど、言い知れぬ不安が──彼女がなにか隠しているという確信めいた思いが──胸の奥でぐるぐると渦巻いていた。

「なぁ、

桑原くんに名前を呼ばれ、ちゃんは小さく首を傾げる。
2ヶ月と同じ色の瞳、2ヶ月前より少し伸びた髪、2ヶ月前とそう変わらぬ背丈。だけれども、言い知れぬ違和感が脳で警鐘を鳴らす。目の前にいるのはたしかに桑原だ。それは間違いの無いことだが。

「……お前、なんか雰囲気変わったな」

兄である桑原くんがそれに気づかないわけがなかった。
しかし当のちゃん自身はそれに気づいていないように、あるいは気づいた上でそうすると決めたかのように、2ヶ月前と同じ笑顔を浮かべるのだった。