一炊の夢

鴉に保健体育を教えるという奇妙な出来事からさらに数日経った。近頃の鴉は悪意の投げつけを減らし、会話を試みるが多くなってきた。いかに時間の尺度が違う妖怪といえど、さすがに嫌がらせし続けるのも飽きたらしい。

「近頃は、随分鴉と仲がいいようだな」
「……………」

だけど、左京さんのこの発言に不快を隠さぬ瞳を向けてしまった事は仕方ないだろう。本来なら少しでも好感度をあげて、無事お兄ちゃん達を誘き出して人質としての役目を終えたあとの生存率をあげておくのが得策だろうけど、そんなことまでしたら擦り切れて消えてしまうのではないかというほど、心が摩耗しているのだ。
それでも、一息ついてなるべく穏やかに「そんなことないです」と声に出せたのは我ながら驚くべきことだ。

「はは、良い目をするようになったな」

左京さんはわたしの必死の取り繕いなど意に介さず、煙草の煙を吐き出して笑う。同じようなことを、鴉も言っていた。

「鴉のほうはお前を気に入っているようだが」
「………嫌いって言われましたよ」
「本人も気づいていない」

ふうん。首を傾げて鴉の言動を反芻する。気に入られ、ている、かなぁ…?彼がわたしの服を裂いて下着を壊した事は、それらを補填した左京さんの耳にも入っているはずだというのに。こういう人からしたら、私たちの小競り合いなど猫の喧嘩くらいにしかみえないのかもしれない。やられている私からしたら結構な大戦争なのだが。

くん、顔を上げたまえ」

別段下を向いていたつもりはないけれど、その言葉に少し上を向くと左京さんは「もっとだ」と更に天を向くよう指示する。おとなしく従うと、ガタリと音がして、視界の末端で左京さんが席を立つのが見えた。

「えっ」
ひたり、と冷たい手が頬に触れる。思わず首をすくめると、咎めるように顎をつかまれた。

「えっ、えっ…」
「少し黙れ」
「や、ちょ…」
「安心したまえ、大した事はしない」

大した事ないことはするらしい。近付いてくる威圧に耐えきれずぎゅうと目を閉じていると、首元がにわかにくすぐったくなる。

「もういい」

支配者の許可で顔を戻す。首元に触れると、ぐるりと一周するなにかがあった。これは──

「苦しくはないかね」

首輪だった。あとから鏡で確認してわかったことだが、中心に黒い石がついていてどちらかというとそれはチョーカーに近いものだったが、機能は同じだ。支配と拘束。私の命なんてどうにでも出来るのだという、確固とした主張。

「大会ももう近い。明後日には君のお兄さんたちも到着するだろう……逃げなければね」

お兄ちゃんは逃げたりなんかしない。そう言おうとしたが、言えなかった。私の喉から声出なかったのだ。
声が、出なかった。
私の戸惑いにくすりともせずに、私の生殺与奪権を握る男は告げる。

「なに、家族と再会するなとは言わないさ。2ヶ月も離れ離れにして悪かったと思っているよ。」

心にもないことを平気でいう人だなぁ。そんなに本心にないことばかり言っていると、私だったらなにが真実かわからなくなってしまいそうだ。

「なにも不安がることはない。私からのささやかなプレゼントさ。事が終われば外してあげよう」

自力で外せないプレゼントなんて、ただの呪いのアイテムだ。
何度が指で引っかいてみたが、まるで私の皮膚の一部になったかのようにぴくりともしない。

「別に爆発したりはしないさ。ただ口無しの呪いをかけているだけだ」

この、声が出せなくなるのは口無しの呪いというのか。ていうか本当に呪いじゃないか。最近の私は本当に、境遇の波乱さが堂に入っている。星座占いとか血液型占いとかいま最下位なんだろうな。

「開催中は自由に過ごすといい。お兄さんと過ごせる最後の時間だからね。ああ、君はこう言いたいんだろう?“お兄ちゃんは負けない”」

開いた口から声が出ない私のかわりに、声を出せなくした左京さんは平然と言ってのけた。たしかに、わたしにこの首輪がなければそう言っていただろう。



「そんなに言うなら、賭けでもするかね。万が一浦飯チームが勝てば、個人的に私が君の願いをなんでも叶えてあげよう」
「その代わりに私が勝てば……ふむ、なにを貰おうか。あいにく、女子中学生から奪わなければ手に入らないものなど無いのでね」
「そうだな……君自身をもらおうかな。悪くない条件だろう?どうせ負けたらきみも死ぬんだから」
「まぁ……多少バランスは悪いが。健全な中学生を2ヶ月も拘束してしまっているからね、おまけしといてあげよう」

見くびられているのだろう。私の願いなど、己に叶えられて当然だという風だ。たしかに、ぼんやりと思いつく望みはどれも彼になら簡単に叶えられそうなものだった。そして、私の命などその願いのどれよりも安いのだ。彼は幼気な中学生の命などなんとも思っていないし、私を監禁したことに対する罪の意識なんてまるでない。賭けの戦利品に私を置いたのも、別に私が欲しいというわけではないだろう。私に差し出せる1番高価なものが、私自身しか無かったというだけの話だ。
この賭けに公平性なんてまるでない。ベットするしか道がないのだから。どうせ乗るならデッドオアアライブな賭けじゃなくてビッグウェーブがよかった。切実に。

「まぁ、そんな顔をするな。ビギナーズラックだってこの世界じゃ珍しいことじゃないさ」

自己の規律を怠らないエキスパートにビギナーが勝つなんて奇跡だけれど、不思議と不安はなかった。お兄ちゃんひいては浦飯チームが負けるはずないし、負けたところで、彼らと運命を共にするだけの話だ。人生2度目はこういうときちょっと余裕だ。死ぬのが怖くないわけじゃないけれど、2度も死ぬなら有意義に死にたい。 何も出来ないけど、それくらいはできる。

桑原は、お兄ちゃんとその愉快な仲間たちのために死にたい。