皮を暴く

いびられている。ねちねちと。
状態を表現すると、その言葉がぴったりだ。
鴉は本当に本当に私を疎んでいる。理由はわからない。
私が人生2度目であるとを気付かれているのかと思ったが、それにしても少し違うようだ。ギョクトとかいう人と、勘違いされている気がする。

「働かずに食う飯はさぞかし美味かろうな」
「そうですね、ルームサービス基本美味しいですね」

あまりにも繰り出される手数が多いので、最近は私もなんだが対応が粗雑になってきている。というか、イライラピリピリしっぱなしなのだ。こういう行為には反応を示せば示すほど付け上がられるというのが通説だが、逃げられない状況においては悪意に強気で返すこともまた大事だろう。1ヶ月も飽きずにこの状態なのだ。耐えても変化すると思えない。これ以上ストレスがかかる前にほかの手をとるしかない。幸い、開催時までの身の安全は保証されている。開催後に自分がどうなるかはわからないけど。
最初に口答えした日、彼は“おや?”とでも言うように方眉を跳ねあげた。その日はそれきり何も言われなかった。翌日からは復活したけれど。

「貴様の矮小な脳ではいくら詰め込んでも端から漏れていくだろうに」
「べつに……反復練習は重要だし」

今日も今日とて、教科書を開いた私に彼はちくりと刺す。使い切ったノートは2桁を数えた。これは期末が楽しみだぞ。受けられるかは不明だけど。
理科の教科書を一周するのはとうに済ませてしまったので、今は教科書を見つつ左京さんにいただいた本を資料として理解深めている。この面白さや好奇心を掻き立てるテーマを中心にした理科の実用書は誰のチョイスなのだろうか。

「そんなに面白いのか?勉強とやらは」
「まあ、普通?…なにかしら役に立つでしょ」
「ほう」

邪魔をしたいのか、本を取り上げられぱらぱらと捲られる。近頃、鴉のウザさが増した。方向性が戸愚呂兄と似てきたのだ。私個人に対して明確に悪意があるか否かが彼らに残された最後の違いだった。そして私も、戸愚呂兄にはぎりぎり向けている愛想笑いを捨てて、鴉にはあからさまに怪訝な顔を浮かべてしまう。嫌な女だと思われようと、敵にまで優しくする必要なんてないのだ。こんな私をみたら、お兄ちゃんがっかりするかな。兄姉と違い敵意が薄く血の気が少ないのが桑原なのだけれど。
鴉は私のベッドに座って味覚に関するページを読み出した。大人しくしているならそれでもよい、私は別の本を取り出す。
しかし私が集中しかけていたころに、本に飽き出した彼が声をかけてくる。とことんペースの合わない相手だ。

「おい」
「…………」
「ほう、無視とはいいご身分だな。下賎な妖怪共に向ける耳はないというのか」
「……妖怪じゃなくて、あなたとお話したくない」
「嫌われたものだな」
「当たり前でしょうっ?」

思わず大きな声を出してしまいながら、気持ちの高ぶりに任せて手に持った本を机に叩きつける。すぐに後悔して本の表紙をなでた。

「随分と気味の良い顔をするようになった。」

鴉は私の憤慨など意に介さず、切れ長の瞳を細い月のように歪めてわらう。
怖い、と素直に思った。この男が何なのか、なにを考えているのかわからない。得体が知れない。
鴉は本を閉じてベッドから立ち上がる。澱のように積み重なった雰囲気に押しつぶされて、鏡台に向かっていた私はそのまま身体が動かせなくなる。この感覚は、あの夜に似ている。飛影さんの妹さんの所在がわかった日のことだ。背筋がぞくりと粟立つ。力の抜けた手から本がこぼれ落ちて、無様に床に転がった。
髪の毛からつま先まで、心臓を突き刺しながらまっすぐ降りかかるこれは、殺気だ。飛影さんの時と違い、今は私に向けられている。

「お前の敵意は心地いいな」

鏡越しに、彼がゆっくりと近づいてくるのが見えた。さながら捕食者のように。

「どうした?先程のように反論してもいいのだぞ?」

トン、と長い腕が鏡に触れる。背の高い彼は、椅子に小さく座る私を包み込むように、あるいは捕らえるように腰を曲げる。私の頭のすぐ上に彼の頭がある。鏡は恐ろしくとも、現実しか映さない。
長い髪が、私の肩に触れた。

「1人前に怯えるようになったか」

鏡についていない方の手が、私の前に回る。白く長い指が私の顎を捉えて、うつむきかけていた顔を無理やり前に向かせる。鏡の中の自分の、その怯えた顔を見たくなくて思わず目を閉じた。

「おいおい、仮にもオレに敵意があるんだろう?目を閉じるのは悪策だ」
「っ…」
「そうだろう?玉兎」
「……わたしは、ギョクトじゃない!」

顎にかけられた彼の手をつかむと、案外簡単に引き剥がせた。
鏡越しに見る彼の顔は、少し目を見開いていて幼く見えた。そういう顔をしていると、鋭いまでの美しさが緩和される。

「ほう、ではなんだというんだ」
「わたしは……お兄ちゃんの妹です!」

よくよく考えたら、“夫の妻です”だとか“右の左です”くらいナンセンスな言い回しだったのかもしれない。でもこの表現が一番しっくりきた。“頭痛が痛い”が間違いであろうとも、“頭痛は痛い”はあながち的外れでもないように。
お兄ちゃんの妹である事は、この世界に放りだされた私にとって唯一すがれるアイデンティティだった。

「ホォー…… 兎も七日なぶれば噛み付くと言うが、なるほど苦し紛れの抗言としてはなかなか捨てたものではないな」

回答がお気に召したらしい鴉は、折り曲げていた体を戻す。座ったままの私との身長差がさらに開いた。私は少しだけ息をついて、後ろを振り返る。私を見下ろす彼は、もういつも通りの澄ました顔に戻っていた。

「お前のその開き直りがどこまで持つかは見物だな」

彼の手が私の胸倉を掴んだ。