沈黙が降る夜

桑原になる前の人生のことは、未だに夢に見る。
辛いことも悲しいことも人並みにあった、けれど楽しいことも沢山あった。あたたかいお風呂にゆっくりと浸かっているような安寧と平穏。ずっと浸っていたい。目の前の現実から目をそらしたい。だってこの現実は、私にとって非現実だ。
だけど、もしあの日々に帰れると言われたら、どうしよう。お父さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん。新しく出来た、あどけないけれど楽しい友人たち。かつての記憶を生かした学校生活。まだ幼いが将来有望故保てるよう努力してきた可愛らしいビジュアル。それらをすべて捨てられるかというと、きっともう無理だ。
桑原としての人生は、どうしようもなく居心地がいいのだ。


「おにい、ちゃん」

目が覚めたら、そこは“桑原”の部屋だった。もうとっぷりと夜は更け、部屋は真っ暗だ。耳に今しがた放たれたばかりの自分の声が残っている。覚醒しかけた意識で兄を呼ぶ情けない声。兄を呼んだことも、自分の寝言で起きたことも、なんとも幼稚で恥ずかしい。享年を基準にしても、いま何歳だと思っているんだ。
しばらくぼんやりとしていると、ほおが濡れていることに気づいた。泣いていたのか、わたし。まったく、本当の本当にどうしようもない。

「起きたようだな」
「!」

急に男の人の声がしてびくりと肩がはねる。よくよく目を凝らすと、窓際には人影があった。
小さくて黒い、飛影さんだ。

「あ、あの」
「貴様が急に倒れた」
「は、運んでくださったんですか?」
「桑原がな」

意外だ。お兄ちゃんの名前、ちゃんと認識しているのか。
しかし、それにしてもなんでこんなところに居るのだろう。もしかして、ずっとついててくれたのかな。
舌が粘つくような、苦味があるような不思議な感じがする。歯も磨かず寝こけていたからだろうか。いがいがとした喉の乾きを覚えて、ベッドから起き上がると少しだけめまいがした。それでも倒れる前に感じた痛みはない。どうしてだろう。寝不足の症状?

「まだ起きるな」
「え、でも」

一言だけ釘をさして、私の口答えを待たずに飛影さんは部屋から出ていってしまった。それきりなんだか動く気にもなれず、もう1度枕に頭を委ねる。
お兄ちゃんのベッドは浦飯先輩が使っているから、お兄ちゃん今日はどこで寝たんだろうか。お布団自体は余っているから、リビングか自分の部屋に布団を敷いたのかもしれない。
南野さんは、おうちに帰ったのだろうか。お姉ちゃんとお父さんは帰ってきたかな。ぼたんさんや、飛影さんはどこへ帰るんだろう。

「おい」
「ひゃっ!?」

そんなことを考えていたから、飛影さんが戻っていたことに気づけなかった。その手にはひんやりと冷気を放つミネラルウォーターのペットボトル。

「ん」

傘を差し出すカンタばりのぶっきらぼうさで、彼は私にそれを突きつけた。飲めということなのだろう。ありがたく頂戴する。

「ありがとうございます」

キャップを開けようと握ったが、寒暖差でキャップがしめっているせいか、はたまた私の手汗のせいか。そもそも握力が弱まっているのか、うまく開けることが出来ない。
もたついていると飛影さんの手がにゅっと伸びてきて私のペットボトルを奪う。

「あ……」

お水、飲みたいのに。
しかし取り上げられたと思ったそれは、私と同じような手つきでよどみなくキャップに手が添えられ、今度はパキリと開けられた。そして再びぶっきらぼうに渡される。開けてくれたのだ。

「ど、どうも」

飛影さん、ペットボトル開けられるんだな。なんとなくそういうのは知識なさそうというイメージがあるけれど。私がやっているのを真似しただけだろうか。
こくこくと冷たい水が喉を通っていく。最近蒸し暑いし、生き返る心地だ。口から喉にかけての苦い違和感も消え去る。

「ぷは」

一連の動作を、飛影さんはじっと見つめていた。いったい何を思っているのだろうか。見ていてそんなに面白いものじゃないだろう。

「…………ありがとうございます」
「…………」

飛影さんは、あんまりしゃべらない。でもなんだか、コミュニケーションを放棄しているとは思えない雰囲気だ。自惚れでなければ、私に興味を持っていてくれてる気がする。もしかしたらただ警戒しているだけかもしれないけれど。でも、気を失う前に彼がカレーに手をつけていたことをおぼえている。まったく取り付く島もないというわけではない気がする。

「このペットボトル、うちになかったですよね」
「……蔵馬が買ってきた」
「そうなんですか、えっと、みなみの……蔵馬さんは?」
「家に帰った」

なんだか少しだけ“原作”について思い出してきたぞ。えっと、蔵馬さんは魔界の秘宝だかなんだかいう、願いを叶える鏡を盗んだんだ。それで母親を治して、罪は罪だから罰として幽助を手伝うことになった、みたいな流れだった気がする。そうだ、その鏡が代償に命を要求してきて、それを幽助と割り勘したんだ。
なるほど、お母様がまだ入院しているかそれとももう退院したのかは知らないが、どちらにせよあまり家を空けておく気分にはならないだろう。明日は学校もあるだろうし。
そういえば夕食の時にお兄ちゃんたちが話していたけれど、皿屋敷中がなにか大変らしい。その関係でお兄ちゃんたちも大怪我を負うことになったのだとか。核心になる話を説明されてないにしても、ずいぶんあやふやな認識しかしていなくて申し訳ない。とにかく、そんなごたごたの影響で螢子さんがピンチにり、幽助もあんな状態になった、らしい。

「飛影さんは、どうして」

どうして、そばにいてくれたんだろう。お水まで持ってきてくれて。なんだか優しい気がするぞ。人間として社会に参加している南野さんならともかく、わりと妖怪どっぷりな飛影さんにそんなことをされるとちょっと怖くなってくる。

「一飯の礼だ」
「なる、ほど?」

カレーライスの恩か、少なくとも不味くはなかったということだろう。お口にあったようで何より。

「じゃあ、ついでに一宿の恩も追加しませんか?」
「……なんだと?」
「いえあの、押し入れに布団入ってるので、使ってくだ、さい……」

調子に乗ってしまったかもしれない。鋭い瞳を向けられて言葉が尻切れトンボになってしまう。恩とかいう言葉が、そのもの恩着せがましかったのかもしれない。

「……いらん。俺はもう行く」

からりと窓が開けられて、夜風が吹き込んでくる。どうしよう、飛影さんにウザがられてしまった。

「あ、待っ……」
「ところでお前」

窓のサンに足をかけながら、飛影さんはこちらを振り向く。ていうか、せめて玄関から出て欲しい。あと今気づいたけど、土足だったんですね。

「何も覚えてないのか」
「なにもって……」
「…………なんでもない」

私の追求の言葉を聞く前に、飛影さんは夜の帳へと吸い込まれていった。慌てて窓から外を見るが、もう姿は見えない。怪盗キッドみたいな人だ。

「なにもって、なにがよ……」

まさか前世の記憶とかではなかろうね。


桑原の妹は、意味不明な言葉をいくつか吐いてから急に意識を失った。
「あ、おい!?」
「どうした!?」

俺の声に反応して、水場に集まっていた蔵馬たちがこちらの部屋に戻ってくる。倒れた女に気づいた桑原が慌ててそれに駆け寄った。

「おい!!!?」
「飛影!ちゃんはどうしたんだい!?」
「知らん、急に倒れた」

事実だった。勝手に目を回して勝手に倒れたのだ。まさか目の前の飯に俺が手をつけたから倒れたなんてことはないだろう。蔵馬達だって同じものを食べていた。

「熱が高いな、霊力も乱れている」

桑原の腕の中の女の額に手を当てた蔵馬が呟く。
女は苦しそうに息を吐いて、青ざめた額から汗を流す。最初にこいつを見た時に一瞬感じたような、霊気に混じる違和感が強くなっている。蔵馬もぼたんもそれを感じたようで、顔色を変えて女に注視した。得体が知れない。“これ”は一体何なんだ? 桑原はおかしな顔を一層歪めて、妹の手を握った。

「じゃ、じゃあ俺が霊気を送れば……!」
「いえ、桑原くんはまだ調子が戻ってない。ぼたん、キッチンの薬湯の残りを持ってきてください」
「わかった!!」

ぼたんはすぐさま薬湯を持って戻ってきた。怪しげな色に渦巻く薬湯。桑原の霊力回復に使ったものだ。

ちゃん、飲んで……」
「ダメだよ蔵馬、意識がない!」
「っ……」

湯のみを唇に持っていったが、口周りが汚れただけだ。桑原がと名前を呼びかけるが反応がない。かろうじて、荒い呼吸だけが女の生命力を感じさせるものだった。
蔵馬は目を細めて、湯のみの中身を自ら煽った。

「!?」

桑原とぼたんが止める間もなく、蔵馬は女に口付ける。
これにはさすがの俺も驚愕で目を見開く。
女の頭を支えて、蔵馬の舌が薬湯を女の口腔内に流し込む。溢れた液体がどろりと唇の端から垂れ、こくりと喉が上下するのが見えた。

「くっ、蔵馬ぁ!?」
「は、ちゃんと飲んだみたいですね……」

唇を離した蔵馬が袖で自分と彼女のそれを拭う。ぼたんと桑原はしばしぽかんとあっけにとられ、いち早く復帰したのは桑原だった。

「くっ、くくくくくらま!?テメェ妹になにしやがんだぁ!?」
「応急処置です。ほら、呼吸が落ち着いてきた」

胸倉を掴まれた蔵馬は平然と言ってのける。確かに、女は先程より胸の上下が穏やかになり、表情も少し和らいでいた。味はともかく、こいつの薬湯は本当に良く効くのだ。

「で、でもおめぇ、もっとあったろ!?俺とかぼたんとかよぉ!」
「すみません、慌ててしまって。問答する時間も勿体なかったでしょう」
「蔵馬、あんたオトメの唇を奪っておいてなんてしれっと……」
「ただのマウス・トゥ・マウスですよ。でもショックをうけるといけないので、秘密にしてあげてくださいね」

この女にこの事実を伝えるべきかの問答が桑原、ぼたん、蔵馬の間で行われたが、すぐさま“秘密にする”という結論で話が固まった。
まったくくだらん話だ。