めをそらさないで話してね
蔵馬、飛影。どこかで聞いたことある名前だ。どこでだかは思い出せない。なんだか胸の奥がぐるぐるしてしまう。
お兄ちゃんとぼたんさんと南野さんの会話を聞き流しながら、私の頭は違和感でいっぱいだった。なにか、私の記憶の奥底からずるりと引っ張り出そうとしているような、そんな異質な感覚だ。気持ちの悪いデジャヴ、とでも言おうか。歯になにか挟まったのような気持ち悪さが拭えない。
「おゥ、なにぼーっとしてんだよ」
「妖気に当てられちゃったのかねえ。休んどくかい?」
「そうしろそうしろ。兄ちゃん達が片付けとくからな!」
ぼんやり記憶をたぐっているうちに私の異変に気づいたお兄ちゃんに声をかけられる。面倒見のいいぼたんさんも加わり、あれよあれよという間に食べ終わった私の食器を奪われて片付けが始まった。南野さんも立ち上がり、あっというまに空にされていた大皿を片付け始める。
「あ、え」
「ほんとうに、顔色が良くないですよ。休んでいてください」
「は、はい」
有無を言わさぬ笑顔だった。お兄ちゃんとぼたんさんと南野さんの3人がキッチンへと行ってしまうと、残されたのはもちろん。
「…………」
「…………………」
私と、カレーが入ったままの皿を前にした飛影さんだった。
カレーはとっくに冷めているだろう。飛影さんは少しも手をつけるそぶりがない。警戒されているのか、それとも。
「お、おなか、すいてないんです、か?」
ぎょろり。飛影さんの大きくて鋭い三白眼がこちらを向く。
い殺さんばかりの視線、これが殺気というものなんだろうか。
違うな、ただムカついてるだけな気がする。
「…………」
「ご、ごめんなさい」
そんなに失礼なことを言ったつもりは無いけど、迫力に気圧されてつい謝ってしまう。飛影さんは私の情けなさに呆れたのか、それとも興味が無いのか、ふいと視線そらしてしまった。猫達は相変わらず飛影さんにまとわりついている。それを避けるわけでもなく、飛影さんはただされるがままだ。
「永ちゃん、おいでー」
「にゃあ」
そのうちの1匹、1番若い永吉を呼ぶと、子猫は黒い少年から離れてぴょこんと私の膝に乗った。よかった、まだ飼い主としての威厳は失っていないようだ。小さな三角形の耳をくすぐってやると、身体を震わせて身悶えた。
お互い先日は身の危険を感じた仲間だ。結局、私たちを傷つけようとしたあの男子中学生は後日丸坊主になって謝りにきた。いったいどんな心境の変化があったのだろうか。
あの、小鬼みたいな生き物は関係あるのだろうか。
今私の膝の上でごろごろ喉を震わせる永吉よりも小さかった、小鬼。たしかぼたんさんが“邪鬼”と呼んでいた。セオリーでいえば、あの邪鬼とかいうやつが彼を操っていたのだろう。
セオリーっていうのは、たとえば小説とか、漫画とか、そういう物語での話だ。妖怪退治ものとか、除霊もの。ゴーストスイーパーや地獄先生などが有名だ。こっちの世界にはないものだけれど。あとは、幽白とかもそんな話だった気がする。
幽白。
「ゆっ……!?」
幽白。そうだ、幽白だ。
飛影、蔵馬。キャベツ畑を信じている女の子に無修正ポルノをつきつけるやつ。悪人の血からのほうが綺麗な花が云々のやつ。飛影はそんなこと言わない!のやつ。
断片的で雑然としたノイズの多い記憶が頭に流れ込んでくる。目の前の現実を確認しようとバッと顔を上げると、スプーンをくわえた飛影さんが虚をつかれた顔をしていた。なんだ、あなたなんだかんだでカレー食べるんじゃないですか、と突っ込んでる場合ではない。
幽白、あまり記憶にない。というか、本来はストーリーだってきちんと記憶していたのかもしれないが、もはや13年の桑原としての記憶によって摩耗して思い出せない。だからこそ、ここまでキーワードが出ていたのに今の今まで幽かな違和感しか覚えていなかった。そうして今でも、名前以外ほとんど思い出せない。
だけど、それでも少しだけ思い出したのだ。幽助、蔵馬、飛影、桑原。アニメ化もした人気漫画。休載の多い大先生。なんなら幽白よりも狩人のほうがよく思い出せる。あれは、“私がもと居た世界”では完結しただろうか。クラピカが好きです。いやそんなことは今はどうでもよくて。
まさか、ただ前世の記憶があるだけではなくて、異世界トリップだなんて。
顔を上げたままフリーズした私を飛影さんは怪訝そうな顔で見つめる。永吉がにゃあと鳴いて私の膝から逃げるように飛び降りた。逃げたいのは私のほうだ。現実から逃げたいのは、あるいは非現実から逃げたいのは、わたしだ。
「うそ……」
胸の奥からどっと何かが溢れ出るような感覚。胃がきりきりとして、めまいがした。
「あ、おい!?」
飛影さんが叫ぶ。飛影さんがそんな声を出すキャラだったのかなんて、思い出せないまま目の前が暗くなった。飛影はどんなことを言うんだ?思い出せない。
名前なんてただの記号だと人は言う。
飛影、蔵馬、幽助、桑原。
私には、もはやただの記号ではなくなった、名前しか、わからない。