09

「こんばんはー」
「おう、いらっしゃい」

退勤後、浮かれる商店街を進んでマスターの店へと入る。夏の薄闇に包まれた歩行者天国は、イルミネーションと立ち並ぶ店のライトで輝いていた。
マスターの酒場の前にもテーブルが置かれ、すでに出来上がりつつある立ち飲み客が店の内外に賑わっている。

さん!」
「ルクさん、お疲れー」

カウンターでビールを注ぐルクさんは、私に気づくと自惚れ抜きで嬉しそうに破顔した。近頃は、初めて会った時より表情が豊かになった気がする。なんだかイキイキしているのだ。

「忙しそうだね」
「ええ、人が増えてきました」

雑然とした酒場で、ルクさんのハイソな雰囲気は少し浮いていた。玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じルクさん。その本質からみたルクさん、一体彼は何であるか。なんてね。

「はい、どうぞ」
「ん。ありがとう」

ビールを手に、店の隅に陣取る。マスターもルクさんも忙しそうだ。サマーバザールのパンフを見ながらちびちびと飲み進める。一杯呑んだら鍵をもらって先に帰ろうかな。

「あれ?さん」
「ん?」

ふいに男の人に声をかけられる。顔を上げれば、見知った人だ。同じ職場で働いている男。たしか大学生で、愛想のいい明るい人柄だ。人懐っこく仕事もできるので、他人から悪感情を抱かれることが少ないタイプ。

「田中くん」
「ウス、ひとりっすか?」
「うん。寂しいでしょ?」
「んなことはないすけど、なんか似合いますね」

そういって、彼は浅く焼けた肌にいっそう輝く白い歯を見せて快活に笑った。

さん、お酒つよいんですか?」
「うーん、普通くらいかなぁ」

田中くんは強いらしく、がぶがぶとビールを飲みすすめている。見ていて気持ちがいいほどだ。

「田中くんは、ひとり?」
「そうです。さんと同じっすね!」
「大学生とか、普通友達とか彼女とかと来るんじゃない?」
「友達とは週末。彼女はいないっすよ」
「えっ!」

素直に驚いてしまった。田中くんは、フツメン系雰囲気イケメンなのだ。その上性格がいい。職場でもよくモテてるし女子に頼られている。優しくて頼れるフツメンなんて、女子なら1番狙い目じゃないか。

「いや驚きすぎでしょ」
「ごめんごめん。大学とかカワイイ子いるでしょ?」
「うーん。いや学校の女の子もいい子達ばっかだし好きっすけど、俺はもーちょっと、落ち着きがあるというか。大人のひとがいいというか……」
「ふーん……」

彼にしては珍しく、えらく歯切れの悪い言葉だった。年上好きなのかな?若者にとってその嗜好はそんなに言いづらいことなのか。もしかしたら私の知り合いに意中の人がいるのかもしれない、具体的には職場にとか。

「ま、若いんだしがんばれ!」

君ならきっと大丈夫だ、という無責任なことまでは言えないけど。田中くんはなんだか釈然としない顔をして、ぐいとビールを1口煽った。

さんはどうなんすか?」
「え、女性にそれ聞くー?」
「秘技、セクハラ返し」
「一生秘めてて」

しかし、たしかにそれなりに親しいとはいえ交友関係を聞くのは失礼だったかもしれない。ここはフェアに、私も答えよう。

「彼氏なんていな──」
さんっ」

そこそこコンプレックスになりつつある男日照りを年下の男の子に告白しようとしたところで、その発言は遮られた。

「あれ、ルクさん」
さん、これを渡しておこうと思って」
「あ、鍵」

今日の本命、家の鍵である。アルコールの波ですっかり頭からこぼれ落ちていたけれど、これを取りに来たのだった。危ない危ない。

「忘れてたー。ありがと」
「いえ、先に帰るんですよね?」
「うん、これだけ飲んだら」
「自分遅くなるので、なんだったら先に寝て──いや、危ないですね」
「大丈夫、寝ずに待ってるよ」

そこまで話したところで、漸くルクさんは田中くんを見た。今気づいたのか、気づいていたけれどこちらを優先したのかは知らない。田中くんはぽかんと、理解が追いつかないような顔をしていた。ルクさんのあまりにも輝けるオーラに驚いているのかもしれない。わかるよ、君の気持ち。
ルクさんは、まるで自分の立場と美しさを心得たお姫様のように、にこりと魅力的に笑った。私が知る中でも完璧に近い笑顔であった。

「あ、この人は仕事仲間の田中くん」
「ども、こんちは」
「田中くん、この人はルクさんで、えっと……」
「こんばんは、さんとお付き合いしている者です」

お付き合い!そうだ、そんな設定だったんだ。危うく矛盾を抱えてしまうところだった。どこでマスターと田中くんの情報網が一致してしまうかわからないのに。上手く私をかばってくれたルクさんと、田中くんは戸惑い気味に言葉を交わす。

「え、て、いうか、同居?ど、同棲……?」
「ああ、最近住み始めたんです。合鍵がまだなくて」
「うん、こんど作ろうかなって」

確認するように私に微笑みかけるので、わたしもルクさんにのっかる。嘘はついてないのだ、恋人であるという部分を除いて。

「そ、そうなんすか……」

ひくり、と田中くんの爽やかフェイスがひきつる。やばい、年甲斐もなく彼氏といちゃつく女だと思われてしまったかもしれない。さんこの間外国人のカレシといちゃついてたんですよ、なんてうわさを立てられたらキツい。田中くんはそんな子ではないとは思うけど、人の口に戸は立てられない。これ以上嘘が広まってしまうのは避けたい。

「え、えっと、職場では秘密にしててね!」
「は……はい……」

そして田中くんは何かを飲み込むようにビールを一気に煽った。
空になった容器を見てルクさんは余念なく言う。

「おかわりはいかがですか?」


やばい、寝そう。
揺れる頭をどうにか覚醒させていると、「ただいま戻りました」の声とともにルクさんが帰ってきた。

「ルクさん、おかえりー」
「眠そうですね、遅くなってすみません」

ルクさんが帰ってきたことで、私は重力に身を任せてころんと寝転んだ。床だから寝心地はよくないけど、なんだか普通に慣れてきている自分がいる。それ以上に眠い。

「そんなところで寝ないでください」

目を閉じていたけれど、ルクさんが困ったように笑うのがわかった。なんとなくだけれど、わかるのだ。この人はどうしようもない女のどうしようもない部分をわらって流せてしまうのだ。おそらくまだ20代だというのに、妙に度量が深い男だ。

「はこんでー」
「はいはい」

酒以上に眠気で理性がダルダルの私を、ルクさんは抱えあげてベッドに下ろす。ルクさんからも、微かに酒の匂いがした。それから汗のにおいとタバコのにおい。なによりも、ルクさんの香りがした。

「んー、るくさん。いいにおい」
「そうですか?汗臭いでしょう」
「でもいいにおい」

本能に任せて嗅いでいると、そのまま眠ってしまいそうだ。心地いい。
田中くんには死んでも見せられない姿だな。

「田中くん、とかいう人は──」
「……ん〜…?」

頭の中を見透かされたように、彼の口から田中くんについてまろびでた。そんなに気になる邂逅だったかな。もしかしたら、同年代の男友達というものがほしいのかもしれない。

「……田中くんのこと、どう思ってるんです?」
「どうって…。ん〜、いいひとだよ」
「いい人」
「気のイイヤツだよ」
「異性としては?」
「いせい〜?」

威勢、異星、異性か。たどり着いた瞬間なんだか面白くてくふくふとわらいだしてしまった。ルクさんが戸惑うのが伝わる。田中くんを異性としてだなんて、そんなこと一度も考えたことなかった。

「ないない!おとうとみたいなのだよー!」

距離感的には従兄弟くらいが近いけど。それにしたって異性だなんて思ったことない。たとえ同い年だったとしても、例えば高校のクラスメイトだったとしても、いいやつだな、あいつどんな女子と付き合うんだろうな、なんて思うだけで終わるのが田中くんだ。

「……では」

ルクさんの手がほおに触れた。ひんやりと冷たい。冷え性なのかもしれない。
うっすらと目を開けると、ルクさんはベッドの脇にしゃがんで私を覗き込んでいた。グリーンの瞳と目が合う。案外目つきが鋭い。

「では、自分のことはどう思ってますか?」

酒に酔ったあたまでも、この“自分”は一人称の自分だというのは経験からすぐわかった。間違えで関西弁的な二人称の“自分”ではない。
つまり、私がルクさんをどう思うか。田中くんが弟であるように、ルクさんは──

「るくさんは、おとうと……じゃ、ない」

弟ではないな、恋愛対象外のクラスメイトでもない。ではなんなのだと問われると、答えには詰まる。

「おとうとなんかじゃ、ない、よ」

宝石みたいに輝く瞳が、きゅうと細められる。笑っているのか、訝しんでいるのかはわからない。
その瞳が、顔が、ゆっくりと近づいてきて、……不意に離れた。

「おやすみなさい、さん」
「おやすみ……るく、さん」

キスされると思ったのに。