08

「じゃーがんばって、あとでいくからね!」

そう言ってさんは出勤していった。あとに残されたのは16時に出勤予定の自分と朝食の残骸だけだ。とりあえず片付けて、一息つかせてもらう。
主婦向けの情報番組を見てみると、わかりやすく噛み砕かれた時事問題と、夏に向けての食中毒対策について特集していた。それから、涼しげなレシピの紹介。このハーブが添えられたカペリーニみたいな麺料理は、さんはお好きだろうか。

あまり部屋を触るのも良くないので、目に見えるところだけ掃除をして外へ出る。ちなみに洗濯はさんがやるので自分は手は出さない。自分の下着を女性に洗われて恥ずかしいと思うほど青い時期は過ぎたし、さすがのさんも異性に下着を晒すほど呑気ではない。

居候させてもらう代償にしてはささやかすぎる程度の家事を終えたら、図書館へ行って新聞を読むまでが決まった日課だった。
こちらの世界ではそう意味が無いことだが、世界情勢には目を向けていないと落ち着かない。それでも経済も政治もどこか他人事に感じるのは仕方が無いだろう。実際自分にはもはや関わりがないのだから。自国がこの国ではマイナーでよかった。今のところ新聞でその名前を目にした日はない。自分が居らずとも回っているところを直視してしまうのはなんだか辛いものがある。アイデンティティの崩壊とまでは行かないだろうが、離婚して手放した子供が自分のことを忘れて成長しているようなもの寂しさだろうか。当然、自分には妻も子供も居ないのだけれど。

「おや、ルクさん」
「サトウさん」

閲覧用のソファに座って経済誌を読んでいると男性に声をかけられた。見上げれば、散歩中によく出会う老年の男性だった。柴犬を飼っていて、朝と夕方散歩させているのだ。道端以外で会うのははじめてのことだった。

「奇遇ですな、こんなところで」
「ええ、本当に」

立ち上がって挨拶をすると、サトウさんは毎日の散歩によって日に焼けた顔をほころばせた。矍鑠とした、いかにも好々爺という風貌は見ていていつでも敬するものがある。手には園芸の本だ。たしか、近頃は細君と一緒にガーデニングに勤しんでいるらしい。

「グリーンカーテンはその後どうですか」
「すくすく育ってなあ。ゴーヤが生ったら是非貰っとくれ」
「それはありがたい、楽しみです」
「うちに遊びに気とくれよ、ゴン太も嫁も喜ぶ」

彼の愛犬のゴン太の話を少しの間小声で歓談して、それから各々のお目当ての本を読むために彼と別れた。歴史小説のコーナーに消えていく彼の背中を見送って再び経済誌に目を戻すと、ふと残してきた愛犬のことを思い出した。朝こそ軽く話題にしたあの子のことだ。
ペルツェはきちんと保護してもらえているだろうか。賢い子だけれど、自動給餌機の中身がなくなればひとりでご飯を食べるのは無理だ。出勤してこない以上合鍵を持っている秘書が様子を見に来るから、大丈夫だろうけど。そうなると自分が失踪していることに気づかれて甚だ面倒だな。いつあちらへ帰れるかはわからないが、もし帰れたのなら後始末が大変そうだ。
もしも帰れなかったら、いつまでも先行き不透明な自分をさんは受け入れてくれるだろうか。
戸籍も国籍もないから、一緒にはなれない。体の成り立ちが違うから、子供だって作れないだろう。きちんとキャリアを積むことも難しいから収入だって不安定だし、そうなるといつまでもさんに甘えてしまうことにーー…

「……や、ちゃうやろ」

思わず母国語で呟いてしまった。その言葉は、人のまばらな図書館の沈黙の中に掻き消えた。
違う。まったくおかしなことを考えてしまった。戸籍?子供?ごく自然に考えてしまったが、話の流れでそこに行き着いたのは明らかに変だろう。
──まるでこの先、さんと男女の仲で寄り添って生きていくような。
そんなの、到底起こりえない未来だ、おこがましい話である。
確かに、周囲への言い訳として自分とさんは恋人という設定であるが、あくまでそれはさんの優しさから許容された設定である。実際はただ善意で拾ってくれた女性と拾われた男というだけだ。さんの気持ち一つで、いつでも消えてしまうものだ。
彼女がのんびりと許容してくれるから、自分はもしかして思い上がっていたんじゃないか。そんな想像を……妄想を、抱いてしまうこと自体なんという不遜だろう。彼女の善意を踏みにじっている。

(あかん。昨夜一緒に寝たりなんてするから……欲求不満なんやろうか。)

腕の中の生暖かさも、小さくて柔らかくてすべすべしていた身体も、鼻に残る甘い匂いも、まだ全部覚えている。明確に思い出せる。今日だって一緒に寝るつもりだろうから、その記憶は再び脳に深く刻まれるだろう。
あんな状態、自分が“普通の人間の男”であれば本能に身を任せていただろう。そう考えると彼女のすべてはとても無防備だ。警戒心がないにも程がある。その危うさが、一方で自分を救ってくれたことに繋がるのだが。
歯止めの聞かない右脳が昨夜の彼女を明確に描き出してしまう前に経済誌に意識を戻す。胸の奥に灯った逆巻く獣欲を金融政策に関するコラムで塗りつぶす。
あらぬ劣情を抱くこと自体、さんに対して失礼だ。あの、なんの下心も見返りもなく自分を助けてしまった婦女子を、性欲で汚していいはずがない。

さんが好きだ。

でもそれはきっと、性愛じゃないはずだ。例えば、あのほんわりとした義理の姉を思うような、そんな気持ちであってほしい。
慈しみたい、守りたい。彼女に守られている分、同じだけのものを返したい。家族愛には満たないが、きっとそんなようなものだ。
だから、こんな欲を持つ事は正しくない。間違っている。
(そうや、これは家族愛なんやから……)

この気持ちが、恋であっていいはずがない。