04

さんが仕事から帰る時間には家にいるということを条件に、彼女は家の鍵を貸してくれた。それは家にこもっていても暇だろう、さりとてお金があるわけでもなし、ずっと外にいても疲弊するだけかもしれない、という配慮かもしれないが、重ね重ね不用心というか、自分のことを信用しすぎだろう。

平日の街は様々な人で賑わいを見せていた。目の前をスーツの男性が横切っていく。学生服を来た男女が楽しそうに歩いている。平和だ。

この土地で、自分が就ける仕事はあるのだろうか。あきらかに異人種の自分相手では、雇用主も警戒してしまうだろうし。
なるべくはやく自活しなければ、彼女の好意に甘え続けることになってしまう。
お金を転がすのはそれなりに経験があるが、元手がいる以上それを彼女に借りるというのもダメだろう。自分で働いて用意するしかない。
それなりに苦労はしてきた。肉体労働だってこなしてきたが、しかしこうして現代社会において身分を保証するものなく放り出されたのは初めてのことだ。立たされる苦境の種類が違う気がする。

「困りましたね……」

外国人の仕事としてポピュラーである言語講師をしようにも、きちんとしたところであればあるほど外国人を雇うリスクを心得ているだろう。なにかしらの身分保証を求められる可能性が高い。
なにも後ろ盾がない以上、思いつくのはアンダーグラウンドな手立てだが、それはやめて欲しいとさんによく言い含められていた。そんなことをするくらいなら、家にいてくれるだけでいいと。たしかに、拾われた上にさらに面倒ごとに巻き込んでしまうようなことは避けたい。今の時点で既に、さんには物凄く恩義がある。
さん。
彼女も彼女だ。平気で自分のようなよくわからない存在を保護し、受け入れたけれど、なんという懐の深さだろうか。マイペースというか、猫でも拾う気軽さで身分不明の外国人男性を拾ってしまうなんて、なんだか心配になってしまう。事実、経済的にも精神的にもすでに負担をかけてしまっているし。
こんなとき、兄さんと姉さんならどうするだろうか。姉さんは同性の気軽さがあるからまた状況が違ったかもしれない。明るく社交的だし、さんへの負担も軽かっただろう。兄さんも苦境への慣れ方は自分の比ではない。みるからに体力がありそうな見た目だし、バイタリティもあるから力仕事なんかを見つけて上手くやるだろう。
ならば、自分という弟は、こういうときには何をすべきなのだろうか。
心の奥の卑屈な部分が顔を出す。兄さんと姉さんがいなければなにもできないような子供ではない。けれど、国という立場を剥いてしまえばただの無力ないち市民だ。あるいは市民ですらない。国民もいない。立場もない。お金もない。住む場所だって無い。異世界にいるということで、なんと多くのものを失っているのだろう。
急に胸の奥が冷えた気がした。こんな、自分の居場所を見つけられないだなんて、それだけで自分を見失いかけるなんて、まるで人間の青年みたいじゃないか。
ばかばかしくて、笑う気もしない。


約束通り、ルクさんは私の帰宅時間に合わせて家に帰っていて疲労困憊の私を出迎えてくれた。

「ただい、ま」
「や、おかえりなさい。そろそろ帰る頃だと思っていたんですよ」

誰かにただいまなんて言うのは久しぶりのことだった。
洗面所で部屋着に着替えて、寛げる姿になってから戻るとルクさんは温かいコーヒーを入れてくれた。よく出来た妻のようなひとだ。とてもいい香りがすると思っていたら、私がいつもまずいコーヒーをいれているのと同じものを使ったらしい。あの豆にこんなポテンシャルが隠されていたとは、私のコーヒー下手さが浮き彫りになった。

「おいしい!おいしいよルクさん!」
「それはよかったです」

香りはもちろん、味も上出来だ。
明日からはコーヒーは彼に入れてもらおう。
コーヒーブレイクしている間に彼は牛丼用に具材を切ってくれていた。あまり彼にばかりさせるのも悪いので、私はコーヒーブレイクを早々に切り上げて味噌汁用にオクラを処理する。狭いキッチンは二人並ぶとぎゅうぎゅうだ。お互い肘が当たらないように必死である。

「まだ休んでいてください。お疲れでしょう」
「んん、じゃあオクラもこんな感じに切ってください。豆腐も。切り終わったら交代しましょう。」

下処理を終えたオクラを彼に預ける。具材準備の役目は彼に任せて、私はあとで味付けに専念しよう。別にサボっているとかではない。適材適所というやつだ。和食はそんなに食べたことないと言っていたし、調理を任せ切るのはまだ難しいだろう。
座椅子に座ってコーヒーを飲む。やっぱり美味しい。彼のもともとの職業は知らないが、もしかしたらバリスタなのかもしれない。カマーベストとか着てるし、なんだかそういうのが似合いそうだ。あとはバーテンダーとか。マジシャンとか?発想が貧困過ぎて困る。貧すれば鈍するというやつであろうか。

鈍する、というわけではないが、彼は彼でなんだか疲れているようだ。昨日の今日で色々と落ち着かないままなんだろう、表には出さないがカルチャーショックもあるだろうし、身なりがいいから元々はいい暮らしをしていただろう。私の今をときめく貧困ライフについていけないのかもしれない。

「具材切り終わりましたよ」
「よし、じゃあ交代ね!」

今度は私がキッチンに立つ。お腹もすいたしさっさと食べてしまおう。手早く牛丼と味噌汁をつくる。副菜がないけれど、今日はもういいや。
私が料理をしている間、ルクさんはコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。暇なんだろうし、もしかしたらこちらの世界のことを把握するのに必死なのかもしれない。テレビ漬けになりそうだ、今度図書館にでも連れていってあげようか。

昨日と同じ夕飯を食べ、片付けてもらっている間に今日は私が先にシャワーを浴びた。交代で今度は彼が浴び、きちんと身体のサイズに合ったナイトウェアを着て出てきた。昨夜のわたしのつんつるてんなジャージではやはり申し訳なさ過ぎた。イケメンにさせていい格好ではなかった。

「あー、そうだ、もう一回コーヒーいれてください」
「この時間にですか?眠れなくなりますよ」
「大丈夫!実は日本茶のほうがカフェイン多いので!」

理屈になっているかどうかわからない話だが、それでもルクさんは立ち上がってキッチンへ向かってくれた。それを後ろからのぞき込む。

「どうしたんですか?」
「ん、淹れ方見たくて」

同じ豆だというのにあんなに美味しいなんて、どんな魔法だろう。私の好奇心に応えるように、ルクさんは解説をしながらいれてくれた。豆の産地の話をまじえた薀蓄や、家庭でのおいしい淹れ方について。
話しながらも綺麗な手がてきぱきと手際よく、コーヒー豆をおいしいコーヒーへと変えていく。うっとりするほど香ばしいかおりが漂った。心做しか、豆も喜んでいる、気がする。別に電波系ではないのでそこらへん確実なことは言えないけれど。

「粉がくぼむまで置いてしまうと雑味が混じるので、適度なところでドリッパーを下ろしましょう」

そうして、アツアツでいい香りのコーヒーは私の手元へとやってくる。ほんとうにマジシャンではないのかというほど美しい所作と、魔法のような手腕だった。

「おいしい……」
「よかったです」

おいしい以外に上手いことを言えない私の下手な食レポに、ルクさんは嬉しそうににこにこと笑ってくれる。イケメンで、気遣いができて、優しくて、コーヒーをいれるのがうまいだなんて、かれはほんとうに王子様みたいだ。

「ルクさんって、ほんとになんでもできるね!」

テンションが上がりすぎた私の急なコメントに、グリーンの瞳がぱちりと見開かれた。その片目しか見えない髪型もずるい。ミステリアスでぐっとくるのだ。

「……これだけですよ」
「へ?」

そのグリーンは、ふっと陰った。少し顔が斜めに向けられたせいで、彼の顔が長い前髪に隠れてしまう。
口元は笑っている。

「自分には、これくらいしか出来ないので」

王子様らしくない、卑屈な言葉に驚いた。あるいは、少女漫画的には「カレが私にだけ見せる弱い1面」といったやつかもしれない。私は頭が軽いので、少し低い声でつぶやかれて普通にきゅんときてしまった。そんな空気ではなかったかもしれないけれど。

「でもルクさん、かっこいいし、優しいじゃないですか」
「どうも。でも、それだけですから」

自分でもびっくりするほど表面的なことしか見えていないコメントがつい口をつく。もしかしたら、私は彼を慰めようとしているのか?
そんなの変だ、だって彼は笑っているのに。慰める必要なんてないじゃないか。

「それだけって言われても、わたしそれすら持ってないしなぁ」
「そんなことはないです。あなたは素敵な人ですよ。」

笑っているのに、少なくとも口元は。
口元だけは。

「あなたは素敵です」

やはり表情は伺えない。ルクさんは殊更明るい声色をだそうと気をつけているように見えた。

「自分なんかは、顔が良くて、優しくて、コーヒーをいれることができる。それだけです、自分に出来ることは、それだけ。」

そんなことないよ、と言えるほど彼のことはよく知らない。
もともとの職業も、苗字も、趣味も知らない。そもそもルクという名前が本名かも知らない。好きな食べ物も、好みのタイプも、年齢も、連絡先すら実は知らないのだ。
ふらりと家を出ていかれたら、帰ってきてくれる確約はどこにもない。そうしたらきっと、二度と会えないだろう。
通帳なんかを盗まれて、そのまま消えられてもおかしくない。寝ているところに乱暴をされたり、私の名前を語って悪事を働かれたり、そんなことをしない保証は無い。
保証はどこにもないけれど、彼のことは何も知らないけど、けれどもきっと彼はそんなことはしない。私にひどいことなんてしない。そんな自信が出会った時からずっとあった。
それって、すごいことなんじゃないかと思うけど。

「なんというか、えっと」
「…………」

私の長らくのフリーズの間中、ルクさんは待っていてくれた。おかげでどうにか伝えたいことを纏められた。マイペースなわたしに合わせてくれるんだから、そこだって美点だろう。でもそんないいところを一つずつあげても限りがないし、頭も悪いし口も回らない私が言えることはひとつだけだ。

「でも、ルクさんはここに居てくれるじゃないですか」

私みたいなあからさまなダメ人間にも、呆れずに居てくれる。それだけですごいのだ。すごく、ありがたいのだ。
遠くの親戚より近くの他人というが、まさしくそれだ。基本ひとりきりな私だから、帰ったらおかえりと言う人がいて、コーヒーをいれてくるだけで、これほど救われることは無い。咳をしてもひとり、という自由律俳句があるが、その虚しさはいわんや。まだ出会ったばかりで、“二人”にはなりきれていないかもしれないが、“一人と一人”になれているなら、合計48時間も一緒に居ない私たちならば及第点ではなかろうか。

ルクさんはまっすぐに私を見た。今度は口元も笑っていなかった。真顔になられると、顔の造形の良さが際立ってドキドキしてしまう。まるで彫刻のようだ。スタイルもいいし、モデルとかすればいいんじゃないかな。ん?モデル?

「あー!それだ!」
「え?」

私の急な大声に、ルクさんが驚く番だった。それだってなにがだよ、と目で訴えかけられる。

「あのね知り合いが街のビールフェスの売り子を探してるの、短期だけど2週間やるし、ルクさんみたいなビジュアルだとイメージぴったりだよ!」

知り合いだからごり押せば身元に関しては誤魔化せるだろう。イベントの売り子だから顔がいいに越したことはないし、ビールを売るんだからルクさんみたいなビジュアルのほうがなんだか本場っぽくてイメージがいい。商店街の催しの一環だからうまくいけば次の働き口も見つかるかもしれない。

「ね!まだバイト見つかってないならそこにしない?こんどの土曜から!」
「は、はい」
「じゃ、私その人に連絡するね!あ、ルクさん写メっていい?」

寝間着姿であることも気にせず写真を撮らせてもらい、知人にメールする。やはり今夜は私のジャージを着せてなくてよかった。知人からはすぐさまテンションの高いメールが帰ってきた。
『なにそのイケメンどこでみつけたの!?』
雨のそぼ降る近所の道端であることは永遠に内緒にしておこう。
あまりの私のテンションの高さに、ルクさんはしばし面食らっていたが、そのうちこらえきれないという風に吹き出した。

「ふふ」
「あ、ご、ごめん。私ばっかり楽しかったね」
「や、さんはやはり素敵な方ですね」

あまりに綺麗に破顔するから、思わず胸が高鳴る。心臓に悪い。でも女性ホルモンどばどばでてる気がするからこれもルクさんの美点の一つということにしておこう。