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あー、とかうー、とか返事をして、とりあえずご飯とか食べます?というと彼は「いいんですか?いただきます」とにっこり笑った。お互い目の前に横たわった問題をスルーすることで、この場の空気は落ち着いたらしい。お腹がすいてたら頭も働かないしね。

親子丼と味噌汁とコールスロー、あと日本茶をちゃぶ台に並べる。名も知らぬ王子様を、座布団を敷いているとはいえ床座だなんて申し訳ない。彼は気にせずせんべい座布団に座った。相変わらずにこにこと微笑み続けている。頬が疲れそうだ。
スプーンと箸を渡すと、ためらわず箸を手に取った。

「いただきます」
「……いただきます」

同じように手を合わせて挨拶に付き合ってくれた。
つけっぱなしのテレビが、食器の音だけ響く部屋に木霊する。バラエティの愉快なBGMに、今日ばかりは心が浮つかない。

箸を難なく使いこなし、さくさく親子丼をお腹にしまう彼の手元をぼんやりみつつなにか言おうと口を開くが、言葉はコールスローとともに私の喉に舞い戻る。それをなんどか繰り返し、やっと出た一言は、緊張の極みで震えていた。内容よりも、シチュエーションで負けていたのだ。

「うちに住む?」

髪に隠れて片目しか見えないグリーンアイは、驚きもせず、かと言って喜びも怒りも悲しみもなかった。ただ笑みが浮かんだまま淡々と向けられて、くちびるは「いいんですか?」と紡ぐ。

「だだ、だってあの、行く所、あるの?」
「ないですけれど」
「うち狭いけど、あの、気が済むまで居たら?」

私の気の話か、彼の気の話かは知らない。多めに噛まれた“だ”のことなんて彼はちっとも気にせずに会話を続ける。

「女性の部屋にだなんて、申し訳ないです」
「雨が止むまでいたら?どうせ洗濯しちゃったし」

なんで私はこの人をこんなに引き止めているんだ?顔がいいからかもしれなかった。でも、今追い出したら洗濯物の処遇が不明になるのもかなりの割合をしめている。彼はゆっくりまばたきして、口元から笑を消した。

「では、よろしくお願いします」

助かりました、ありがとうございます。という頃には唇には笑みが戻っていた。

「ところで、えっと、お名前は」
「申し遅れました。ルク、とでも呼んでください」
「どうも、です。ルクさん」


寝床問題。
大きな問題が一つ解決したと思ったら、次には小さな問題がいくつも転がっていた。つつがなく生活するにはひとつひとつ蹴飛ばしていくしかない。とりあえず今一番大事な問題が、寝床問題。

「ルクさん、ベッド使ってください」

ルクさんはくるりと、今更把握するものなどなにもない小さな部屋に視線を一周させた。置いてあるベッドはひとつきりだ。ちゃぶ台をどければ布団くらいは敷けそうだけど、あいにくうちに来客用の布団なんてない。

さんはどこで寝るんですか」
「クッション重ねて床で。あ、毛布だけは借りますよ」

羽毛布団は彼に。毎日この状態だときついだろうが、寝床問題が片付くまでの我慢だ。どうするかはまたあした考えよう。

「だめです、さんがベッドで休んでください」

ルクさんは珍しく微笑みを消して、真面目な顔でそう告げる。

「ううん、でもなぁ」

王子様みたいな彼を床に寝かせるなんて、全国のお姫様に怒られてしまう。それに今日彼は異世界からやってきたり雨に打たれたりしているのだから、ゆっくりベッドで休むべきだ。

「では、明日は自分が床で寝ますから」
「じゃあそれで」

食い下がる私にルクさんが折れた。今日のところはベッドの主は彼だ。小さいベッドで申し訳ない。
ちゃぶ台を片付けてそこにクッションと座布団を並べる。ベッドから毛布を拝借してそこに包まると、彼はとても申し訳なさそうにした。つい床で寝てしまうことも多いから、彼が思うほど過酷なシチュエーションではない。
ルクさんが体を折りたたむようにベッドに潜り込むのを見届けてから電気を常夜灯にする。
おやすみなさいと告げると、同じ言葉が帰ってきた。
こうして誰かとそんな挨拶をするなんて、ずいぶん久しぶりだった。


しばらくもぞもぞと動いていた小さな体は、やがて静かな寝息を立て始めた。
自分を拾った女性は、おっとりとして警戒心が薄く、いかにも平和慣れしていそうな方だった。平気で自分を家にあげ、自分を置いたままコンビニへとひとっ走りし、食事まで分けて寝床も明け渡した。
狭い部屋の片隅でうずくまって寝る彼女のどこらへんがこの家の主なのだろう。あまりにあまりの無防備さで、彼女が一連のアクシデントの黒幕なのではないかという疑惑はすぐに消した。これが演技なら主演女優賞ものだ。

ベッドは狭く、彼女の匂いがした。
背の高い自分では身体を曲げなければ入りきれない。それでもこの数時間の出来事にそれなりに疲れている体にはありがたかった。これから一体どうしようかなんて展望、なにも浮かばない。
スマートフォンの連絡先はすべてーー全員に試したわけではないが、少なくとも重要そうな連絡先はすべてーー使えなかった。調べたところ、この世界では”人の姿である国”だとかいう存在にも行き着かない。これでは、大使館に掛け合っても狂人として帰されるだろう。あるいは、正規の手続きを踏んで入国したわけではないことでなにかしらのトラブルまで引き起こすかもしれない。
いつかのクリスマスに、裏の地球などという場所から自分達にそっくりの、猫耳がついた連中がやってきたことがある。この世界は、その裏の地球でこそないだろうが似たようなパラレルワールドなのかもしれない。
どんな原因で迷い混んでしまったのかは知らないが、そこがわからない以上帰り方もわからない。

。教わったばかりの名前を口のなかで転がす。

彼女のような善良な一般市民に拾われたことは幸運だろう。暮らし向きに余裕がありそうではない女性に厄介になるのは申し訳ないが、しばらくはここを拠点にするしかない。なるべくはやく、身分証をごまかして働き口を見つけて、自立するのが当面の目標だ。
焦るばかりの気持ちをごまかして目を閉じた。上司や部下や、兄や姉はどうしているだろうか。愛犬の世話は、誰か引き受けてくれているだろうか。
せめて少しでもおおごとになっていなければいいが。

「………おやすみなさい」

目が覚めた全部夢だったらいいのに。