つまみ食いはほどほどに
(連載設定) (くっついてる)「すみません、バレンタインは会いに来ないでください」
なんて言うふうに蔵馬さんに言われて面食らった。だってそうだろう。来たるバレンタインに備えて、私はレシピを吟味し、美味しくて甘さ控えめの彼好みのスイーツを用意しようと思っていた真っ最中なのだから。今日だって彼が勉強を教えてくれる合間に摘むチョコ菓子を見ながらああでもないこうでもないと頭をひねっていた。だからまぁ、素直にショックだったのだ。
そんな私の心中を表情で察したのか、彼は珍しく慌てて訂正を入れた。
「バイオリズムの周期で、ちょうどそのあたりに妖狐に戻りそうなんです」
成程、言われてみれば納得。カレンダーを見て更に納得。来週からぴったりその周期だ。妖狐に戻る時だけでなく、その周辺まで気性が荒くなる期間。生理みたいだな、なんてぼんやり思うけど言ったら絶対怒られるから言いません。
蔵馬さんは私を妖狐に会わせたがらない。そもそもこのまま人間界に交じ入ろうとしている彼に妖狐と恋人の逢瀬は無用であるし、それに私への気遣いでもある。冷酷な妖狐蔵馬、その本性が剥き出しになるのが怖いのだと彼は言った。私を傷つけるのが怖いのだと。
そんな蔵馬さんの気持ちを尊重しないでなにが恋人だろうか。
「そっか、じゃあ仕方ないですね」
「ごめん。この埋め合わせは必ずしますから」
なんて申し訳なさそうに眉を顰める蔵馬さん。じゃあそのあとの週会おうか、なんて話をして、私はスケジュール帳を開いた。
友達には生チョコ、家族にはガトーショコラ、猫達にはちょっといい猫缶。生チョコもガトーショコラもなかなか上手にできたと思う。友達といっぱい交換したからこれでしばらくおやつには困らないなぁ。夜だというのについつい摘んでしまったクッキーの袋をゴミ箱に捨てて、私は少しだけ自責の念。ううん、太らないようにしなきゃ……。
配り歩いてもまだ余った生チョコの袋を指で弄ぶ。日持ちしないから蔵馬さんには渡せないなぁ。来週になるともうバレンタインって感じでもないし。
セロファンに包まれたこげ茶の物体を見ていると、じわじわと落胆がこみ上げる。どうやら自覚していたよりもずっと、私は恋人と過ごすバレンタインを楽しみにしていたようだった。蔵馬さんと付き合ってから、自分がどんどんワガママで甘ったれた女の子になっている気がする。精神年齢いくつだと思っているんだ、私のアホ。
ため息をついて、ともかく寝てしまおうと勉強ノートを閉じる。
「随分落胆しているな」
「まぁ、そりゃあバレンタインだし…」
蔵馬さんにとっては荷物が増えて大変、みたいな日でしかないのはわかってるけどね。
─────ん?
「くっ……くく、くらまさん!?」
無様に椅子から転がり落ちる私、を見下ろすのは紛れもなく妖狐蔵馬。いつもの蔵馬さんではなく、妖狐蔵馬。妖狐蔵馬。妖狐蔵馬様である。いつのまに!? 鍵は!? と思えば、彼の背後にはためくカーテンと開いた窓が見えた。どうりで肌寒いと思ったよ。
「な、なんでここに!?」
「お前はオレが恋しかったのだろう? であればもっと喜べ」
「よ、喜ぶというかなんというか」
完全に驚きが勝っているんですが。
まさかの来訪に混乱して、とりあえず前髪を手ぐしで整えるのは女心なのかなんなのか。ていうか寒い、窓締めて欲しい。近所迷惑だし。
妖狐蔵馬はそんなことおかまいなしらしく、腕を組んで突っ立っている。
「あ、あの、どいて…くだ…さい……」
何度見ても妖狐蔵馬に慣れないのは、この姿を見るのはいつもお兄ちゃん達と一緒にいて、さらにいえば眼前に敵がいる時に限られているからだ。こんなに間近で、しかも二人きりの時に会うなんて。
窓を締めるには彼の横を通る必要がある、けどそんなことをする勇気はとても無く、私はおっかなびっくりお伺いを立てるしかない。
「窓を、しめたい……ので……」
「…………」
ていうかほんとに何しに来たの。
壁を伝ってどうにか立ち上がった私。蔵馬さんは何を思ったか、ついと手をこちらに伸ばした。ついビクリと身体が震えてしまう。妖狐蔵馬は威圧感がものすごいのだ。美しく、大きく、強い。うさぎ1羽が怯えるには十分だろう。
「…………」
「……?」
涙目で見上げれば、その手は殴るでも叩くでも引っ掻くでもなく、私にも何にも触れることなく、宙で止まっていた。手のひらを上に向けたポーズ。うわ、爪が長い。
「………」
「…………」
私たちはそのまましばらく見つめあってしまう。蔵馬さんの金の瞳。冷ややかで感情の読めないそれがジッと私を射抜いていた。
「…………え、こ、これ?」
奇跡的な閃により、私は熊に退治する人のみたいに彼から目をそらさぬまま、手だけで真横にある机の上を探った。肌に馴染んだ平滑な素材。数十個とラッピングしたそれを、感触だけで選び分けて指先で引っ張る。
私の自信作、ビターとホワイト2種類の生チョコは、そのまま彼の手のひらに放り投げられた。ていうか投げる気はなかったけど指が滑った、お行儀悪いけど許して。恐怖と緊張で震えてるし、セロファンのツルツルと手汗でうまく掴めなかった。
妖狐蔵馬は投げ出されたそれをはっしと掴んだ。大きな手のひらにすっぽりと収まる赤いリボンのラッピング。
「…………」
「ち、違いますよね!?違いますよね!!?ごめんなさい!!」
『寄越せ』のポーズに見えたからつい渡してしまったのだ。慌てて謝罪する私、今度はこっちを見てくれない蔵馬さん。金の双眸がじっとチョコレートを見つめていた。
その隙に、まだパニックの私は一目散に窓へと駆け寄ってとりあえず閉める。いや、もはやこんなことしてる場合じゃない、というかもしかして今私自分で自分の逃げ場を失くした?
カーテン越しに窓ガラスに手をついたまま振り返る。妖狐蔵馬はまだマジマジとチョコレートを見ている。
「く、蔵馬さん…いったい何しに……いらし、たん……ですか?」
妖狐蔵馬が怖すぎる件について。玉兎がどうこう置いといて普通に怖いでしょ、この生き物。蔵馬さんが私に会わせたがらなかった気持ちもよくよくわかる。
「……他の奴にやったものと同じ物をこのオレに寄越すか」
「だ、だってそれしかないんですもん! 蔵馬さん来ると思わなかったんですっ」
「ふうん……」
ピッと包装をその長く美しくめっちゃ怖い爪で破いた彼は、ホワイトチョコを指でつまむ。ああ、生チョコだからそんな風にすると溶けるよ…。なんてことは当然言えぬまま、彼の白い指の中で白いお菓子はゆるりと姿を歪めた。手が汚れたってキレられたらどうしよう。
長い指がチョコを持ち上げて、赤い舌が覗く。口元にチョコレートを運んだ彼は、犬歯をちらつかせながらぱくりとそれを口の中に転がした。
「甘い、な……」
だってホワイトチョコだもん…。震えながら私は小さい頃に観たアニメ日本昔話を思い出す。山姥に追いかけられる牛飼が、山姥の気をそらすために魚を与えるやつだ。まさにその気分。
今度は指の腹にべたりと付着したチョコを見つめる妖狐蔵馬。何を考えているのかはやっぱり不明。今更ながら、狐にチョコって大丈夫かな。
「くらまさ…んむっ!?」
やっぱ玉ねぎとかもダメなんですかね? なんて聞くために開いた唇は、愚かな問をする前に塞がれた。口腔内で蠢く2本の指、蔵馬さんの人差し指と中指を舌にあたる硬い爪の感触と、甘ったるいホワイトチョコレートの味。
「ん、ふむっ……」
「貴様のせいで汚れた」
ほらやっぱり汚れたって怒ったー! 指がそわそわと上顎を撫でる。中で蠢くせいで唇を閉じられない。彼の指が舌を摘んで弄ぶせいで、唇の端から唾液がこぼれる。
「ふぁ、む……ぁっ」
“綺麗にするまで許してもらえない”と瞬時に悟った私が健気に指を舐めるので、彼は少しだけ満足そうに笑った。DVだ、DV。なんて妖狐蔵馬にとっては瑣末なこと。普段の蔵馬さんならなんだかんだであんまりしないことだ。絶対しないと言いきれないのがあの狐のこわいとこで。
彼の怖い部分純度100パーセントは、くちゅくちゅと私の口を散々指で荒し回ったあとにようやく引き抜いた。それでも爪で粘膜を怪我しなかったので、彼なりに加減はしていたようだ。
「はぁっ……は…」
呼吸を整える私を前にして、彼は包装からもうひとつ取り出す。茶色い、今度はビターチョコレートだ。
待ってと言う前に唇にゆるい四角が突っ込まれる。舌に広がる苦くて甘い特有の味。先程のように少し汚れた指が、今度は私の頬に触れた。逃げられないようがしりと掴み、唇に押し当てられる湿った感触。
妖狐蔵馬であっても、唇の感触は彼と同じだった。
「ん、んぅっ………ひぁっ…んっ」
舌がねじ込まれ歯列をなぞり、半ば溶けかけたチョコレートを攫う。ちゅぷちゅぷと口の中で溶け合う度に、彼の舌が私の舌をくすぐった。そのうちに甘い異物感がなくなり、溶けたそれがどちらのものかわからなくなっても。
最後にじゅるりと品なく啜って、やっと唇が離れていく。長い舌がぺろりと顎に伝ったそれを舐めた。涙でぼやける視界に、満足そうに笑う妖狐蔵馬が映る。
「はぁ……くらま、さ……」
「わざわざ訪ねてやったというのに、この程度か」
「だ、だって……」
我慢しきれずにやって来たのはそっちの方だというのに。私はちゃんと我慢してたのに。そう思うと、瞳に張っていた涙の幕が揺らいでとうとう頬を伝った。蔵馬さんのバカ。私以上に身勝手でワガママ。
「さいていぃ……不法侵入ぅ……」
「盗賊だからな」
その生業は前世で足を洗ったんじゃなかったのか。ぐすぐす鼻をすする私を物凄くどうしようもないものを見る目で射抜いたあと、呆れた声が言う。
「欲しいものは奪うことにしている」
がぶり、と極悪非道の盗賊妖狐蔵馬は獲物の首元に噛み付いた。らしくなく、柔らかな甘噛みだった。