芸術の秋

(連載設定) (くっついてる)


 静かな空間は好きだ。図書館や映画館。開演直前のコンサートホール。相乗りのエレベーター。確かに他人が息づいているのに、ぴんと緊張して重い沈黙が落ちる。
 美術館もそのひとつで、ふつりと切れた集中力の隙間で目の前のあざやかな絵画から目をそらし、ふと周囲を見た私は同じエリアに蔵馬さんが居ないことにようやく気づいた。白い壁の空間の中、雪の下のウサギみたいに静かに息を潜めているのは私を含めて数人の客と椅子に座った学芸員だけだ。いい加減地元民は飽き飽きしている常設展には人は少ない。
 先にいるのかあとから来るのか、別にどっちでもいいかと思い、緩慢に体を動かして次の絵画に足を向ける。どうせ美術館ではぐれるのは想定内だ。お互いのペースは尊重するようにしている。


 過度な集中で疲弊しながら、気づけば足は「出口」と書かれた札の前にあった。蔵馬さん、会えなかったな。外にいるのかなと思いそのまま出ると、新鮮な空気に晒されて少しだけ頭が晴れる。密閉空間の反動みたいに大きく作られた窓から日が差して、急に空腹を覚えた。ちょうどお昼時だ。
 ロビーまで出ると、館内のレストランからパスタだかハンバーグだか区別のつかないなんとも心地よい匂いが微かに鼻をくすぐる。姿が見えないので多分蔵馬さんはまだ中。うーん、早く出てこないかな。今にも鳴りそうなお腹をさすって適当な柱の傍に立った。
 展覧会の内部に比べて、ロビーはもう少し人通りが多くざわめいている。隣の企画展が賑わっているからだ。そっちはお互い「興味ある?」「あんまり…」「それよりオレ、静かなほうがいいです」なんて会話で軽くスルーしてしまった。
 なんとも意欲のない鑑賞スタイルだけど、そもそもここに来たのだって彼の気まぐれである。ただ天気がいいから車に乗せられて、適当に走らせて、気が向いたから郊外の美術館まで来たのだ。
 蔵馬さんが出てきたらすぐ気づけるように出口を見つつ、ぼんやりと美術展のフライヤーを見る。都会の大きな展覧会から、どこか他県の聞いたこともないような小さな美術館の企画展まで、様々な趣向を凝らした展示の案内が印字されている。近場で行けそうなのは「妖怪絵巻」展くらいか。さんざん本物を見ているので新鮮味には欠けるかもね。
 ところで。
 唐突な話、私はみんなと違って気配を読むとかそういうバトル漫画じみたことはできない。物音がしたり人影が動いたりすれば気付きもするけど、それは静かな場所でだけだ。穏やかな風が木々を揺らす木漏れ日がまるでシネマのように窓から床へと映し出され、人々のざわめきが白いフロアに反響するロビーでは自分の周りに何がいるかなんてろくにわからない。
 だからまぁ、見知らぬ人が背後に近寄ってるとかそういうのもよくわかんないわけで。


「ねえキミ、一人?」
「うひゃ!?」


 突然背後から声をかけられて、アホみたいな悲鳴あげながら飛び上がっても仕方ないだろう。静かで天井の高いフロアに私の声が目立つ。受付の女性が一瞬不審そうにしたが、すぐに興味をなくしたように隣のスタッフとのおしゃべりに戻った。
 背後からするりと近寄ってきたとしか言いようのない人物──見知らぬ男性──は私の情けない悲鳴に少し笑った。
 年の頃は私より少しだけ上、多分南野秀一としての蔵馬さんくらい。ジレを纏った大学生風で、少し地味ながらも整った印象のある塩顔に黒髪。私の周囲にいないタイプ。
 そもそも身近な男性がヤンキーヤンキー邪眼にロン毛。……たまにおしゃぶり。


「ごめん、驚かせて。人待ち?」
「はぁ……そうです」
「美術館、はぐれるよねー」


 しまった、普通に受け答えしてしまった。しかしこの男性にはなにか人を油断させる雰囲気があった。柔和そうな笑みを浮かべた彼は戸惑う私をギリギリ引かせない程度の距離感でするすると会話のラリーを続ける。


「企画展見た? 書道のやつ」
「いえ、私も友人も興味なくて……」
「結構いいって。まぁオレ見てないけど」


 見てないんかい。
 積極的にナンパというわけでもなく、ただ暇を潰したいというふうの男はつらつらとどうでもいい、だからこそ答えやすいような話題を二三振って、私がそれに飽き出す頃に漸く待ち望んでいた声がした。


?」
「ひゃあっ!?」


 やっと見終わったらしい。案外熱心にコレクション展を楽しんだ蔵馬さんはなんの音もなく近づいて私に後ろから声をかけた。この人の場合、絶対気配消してたでしょ。


「お待たせ
「く、蔵馬さん……びっくりした」
「はは、さっきとまったく同じ反応じゃん」


 からから笑う男性に蔵馬さんは顔には出さずとも訝しげにして、そっと私の手を引いた。表情はあくまでにこやかに、牽制になるほど美しい笑みを浮かべて形だけの礼儀を通す。


「こんにちは。、お知り合いですか?」
「い、いや……知らない人」
「知らない人について行ったらだめっていつも言ってるでしょう?」
「ついて行ってないよ!」


 ちゃんと蔵馬さん待ってたよ! あと別にいつもそんな小学生みたいなこと言い聞かされてるわけじゃないし!
 私たちのやり取りを見て男性はぱちぱちとつぶらな目を瞬かせ、そしてじっと蔵馬さんを見た。あ、この瞳はちょっとやばいぞ?


「へー! ちゃん? の、友達超美女じゃん! やっぱ可愛い子の友達は可愛いんだねー」

 
 コミュ力高そうなのにピンポイントで地雷を踏み抜けるのすごいよね。


「く、蔵馬さん、落ち着いた?」
「別に怒ってない」
「絶対怒ってた! むしろまだ怒ってる!」


 あのあと、蔵馬さんがぶっちぎれる前に「あ! 私たちそろそろ行かなきゃ! じゃーねーばいばーい!」と慌てて蔵馬さんの手をひいて中庭に脱兎した私の英断を誰が褒めてくれよう。蔵馬さん、女の子に間違えられることだけはほんとに怒るからなぁ。中性的で素敵だと思うけど。ていうかロン毛とフードつきのダッフルコートがあまりにも似合う蔵馬さんにもいくらか責任はある。
 手を引っ張って中庭のベンチに座るよう促すと、彼はしぶしぶと言ったように私の隣に腰掛けた。人気もなくなったからか、あからさまに拗ねた子どもみたいな顔をしている。


「……ほんとに、怒ってないですよ。少しキレそうになっただけで」
「怒ってるじゃないですか……」
「恋人が得体の知れない男と談笑していて、そのうえ一番嫌なことまで言われたら怒っても仕方ないでしょう」


 昔のオレなら女の子に間違われたりしなかった、なんてぶつぶつ言っているのを横目に妖狐の姿を思い出す。妖狐、ガタイいいもんね。
 お兄ちゃんみたいに背が高く身体の大きい男の子と並ぶと余計女の子みたいに見えてしまうのは仕方ない。お兄ちゃんわりと規格外にでかいし。蔵馬さんだって決して貧相な訳では無いのだ。


「いーじゃないですか。蔵馬さんが超イケメン長身モデル体型細マッチョなのは私が知ってます」
「見た目だけですか? オレって」
「……頭もいい」


 性格と底意地は悪い。
 ともかく私の褒め殺しで手打ちにしたらしい彼は手持ち無沙汰に生垣の花を揺らした。黄色い花粉が白い指を汚す。


「後悔してる?」


 私の問いかけに大きなグリーンの瞳がこちらを向いた。少しだけあどけない。そういう顔が可愛いのである。


「志保利さんを選んだこと」
「あの時は選ぶような余裕なかったですけどね」


 特防隊に殺されるか否かの瀬戸際、そこにたまたまいたのが受精卵を胎内に宿した志保利さんだ。奇跡と呼ぶべきか、偶然と言うべきか。その一瞬の邂逅がなければ彼は今こうして私の隣に座っていない。
 まぁでも。と、奇跡でも偶然でもない、運命を勝ちとった南野秀一は言う。


「もしもう1度同じことがあれば、オレはまた母さんがいいな」
「…そっか」


 穏やかそうに微笑む彼の、半分は志保利さん。もう半分は私の見たことない南野のお父様で出来ている。彼の顔で志保利さんに似ていないところは、きっと南野さんなんだろう。蔵馬さんはきっと、南野さんを愛する志保利さんを選んだ。そういうことなんだと思った。すとんと腑に落ちるように、そう思った。


「それに、この見た目でいい事もありますよ」
「なに? 敵が油断してくれるとか?」


 基本的に蔵馬さんは優男っぽさで、飛影さんは小ささで敵になめられやすい。油断を誘えるのは1種のアドバンテージだ。
 戦いなんて何も知らなそうな、しなやかな白い指で黄色い花粉を擦って、蔵馬さんは笑う。今度はあどけなさの欠けらも無い、瞳を細めて口の端を持ち上げた笑だった。


「オレ達の子供、絶対可愛いですよ」


 なるほど、そう来たか……。