I killed cocklobin

(沖矢?/総合的に甘くない)



 我が家にはいくつか開けてはいけない箱や場所があって、なにそれとか思いつつも夫の職務上仕方ないとも言える。FBIのお仕事って具体的になにしてるかはよくわからないけど大変らしい。地下室には楽器店のギターみたいに銃が飾ってあるようだし、リビングの床下収納も触ってはいけない。デスクは当然おさわり厳禁だし、彼の部屋の本棚の中にある収納ケースの、一番下の引き出しも同様。私としてはそりゃ少しは気にならなくもないが(だって同じ家に住んでるんだから、たまにはね)、知りたくないから触らないでいる。秘密を共有するということは、呪いを分かち合うようなものだ。重責だし、出来れば一生関わりたくない。彼もそれをわかっている。多分きっと確実に私より。


 赤井秀一は身勝手な男で、正直彼氏にはしても夫には向かないタイプだ。さらに言えば彼氏よりも一夜のお相手が良いだろう。安らぎとは無縁だし、好んで自分を危険に置きたがる。皮肉っぽくて人を小馬鹿にしてくるし、何を考えているかよくわからない。そんな男となんで結婚しているんだと問われたら、気づいたら結婚してたとしか言えない。あのやたらと頭が良くて狡猾な彼がその手腕をいかんなく発揮したのだから本当にそうとしかいいようがないのだ。ふと気付いたら真純ちゃん(これもまたいつの間にか紹介されていた苗字の違う妹さん)が「お姉ちゃん欲しかったんだよなぁ!」なんて無邪気に笑っていたし、苗字が赤井になっていたし、あとなんかアメリカに移住してた。よくよく思い返せば婚姻届にサインしてた自分がいる。どうかしていたとしか思えないし、今もどうかし続けている。結局のところ私は秀一に絆されてしまっているし、現状だって満更でもない。
 煙たいのが苦手な私の傍では絶対タバコを吸わない彼を、愛おしいと素直に思う。


 ─────思うけれど、そうだけれど。


 私には、忘れられない人がいる。
 いまだに夢に見て、目覚めた時には少し泣いている。そういう日は夜中に目を覚ました私に続いて必ず秀一も目を覚まして、そっと私の髪を撫でるのだ。その度彼に謝って、彼も何故か繰り返すように謝罪する。「すまない」と、眠りの淵で泣きながら何度その言葉を聞いただろう。謝るのは私の方だ。プロポーズされた時に「忘れられない人がいるの」と言った私を、彼は一度も責めなかった。そう思う度にわたしは自分の酷さを目の当たりにして、やっぱり泣いた。秀一にわたしは相応しくない。
 だったら誰がぴったり相応しいのかといえばまったくわからないけど、だけど「この人だったらいいのに」という人がいた。その人のことをまだ忘れられない。あんなに誰かを好きになれる自分を知ったのは、彼に出会ってからだった。
 もし生まれ変わっても、私はやっぱりまた昴さんと恋がしたかった。


さん」
「はい?」


 夏だというのにタートルネック、暑くないのだろうか。昴さんは人混みを器用に避けて私を振り返る。わたしは慌ててすれ違いざまの女の子の盛り気味ヘアアレンジに顔が直撃するのを避けて、前を行く昴さんに追いついた。私も浴衣着ればよかったな。


「はぐれますよ、手を」
「は、はいっ!」


 そっと差し出された大きな手のひらに慌てて自分の手を乗せる。やばい、手汗が…。昴さんはそんなこと気にしないというふうにやわく私の手を握って、シャキシャキと歩き出す。見た目の雰囲気に反して彼は歩くのが早い。それに、たった今知った事実だが手のひらが固くて変なところに豆がある。
 お祭りに行こうと誘ってきたのは意外にも彼からで、私は二つ返事で頷いた。断る理由は少しも無かった。「お祭りってあんまり行ったことないんですよ」という発言は意外だったけれど。普通、高校とかで彼女と行ったりするものじゃないか。特に彼みたいなイケメンは。そういえば彼の出身高校を知らないけれど、聞くタイミングを逃してそのままになってしまった。


「昴さん、射的お上手なんですね」
「そうですか? まぁ、コツがあるんですよ」


 小脇に抱えたぬいぐるみを持ち直し、飄々とした彼を見上げる。先刻、彼がお菓子やよくわからないおもちゃと共にいともたやすく撃ち落としたピンク色の小さなクマは、ふさふさして触り心地がいい。射的のおじさんも驚くほどの腕前を披露した彼は、お菓子やおもちゃは近くで見ていた子供たちにみんなあげてしまった。けれどこのピンクのかたまりだけはついと私の腕の中に落とした。


「あなたに似てます」


 そうだろうかと首をかしげて小熊と見つめあうと、彼は喉の奥で密やかに笑った。


さんは射的は?」
「私は全然だめ。あ、でも輪投げは得意なんですよ!」
「ホォー……では是非とも拝見させていただきましょう」
「あ、信じてないですね? ほんとに得意なんですから!」


 しげしげとこちらを見つめてくる昴さんを冗談で睨み返し、私は緑色のテントを探す。例年と同じ場所に建てられたそれに歩み寄ると、彼も何も言わず背後をついてきた。カルガモみたいで少しだけ可愛い。
 見慣れた輪っかをまずは小手調べとばかりに適当な人形に通すと、彼は感嘆の声をあげた。


「ほんとうに出来るんですね」
「疑わないでくださいよ。ほら、なにかいるのあります?」


 スチール缶のジュースの上に置かれた、チープなライターを輪に入れる。取り立てていい大人が欲しがるようなものもないので、手近な景品を適当に狙っていく。ちゃちな指輪なんて2個取れた。10本全部使ってしまって振り返れば、先ほど手に入れたライターを細い瞳でしげしげ眺める彼が居る。


「ほら!」
「お上手です」


 店のおばさんが足元の景品箱を開けて「二つ選びな」と言った。箱の中にはプラスチックの小さなケースに包まれたおもちゃの指輪が並んでいる。5パターンくらいの種類が25個。いくつかデザインが被っているのはご愛敬。わざとらしいほど大きくて色のついた飾りの石が、柔らかいメッキ塗装のプラスチックリングに乗っている。小さい頃はこんなチープでキラキラしたものがほしくて堪らなかったものだ。


「どれにします?」
「僕も選んでいいんですか?」
「二つ取れましたし、せっかくだからおひとつどーぞ」


 いらないかもしれませんが。そう付け足す私をまじまじと見つめて、それから彼はじっと箱を見た。ごみごみと人の多い騒がしい場所のはずなのに、彼に見つめられると人垣が遠のいてさっと静かになるような不思議な感覚がした。
 それだけ、彼しか見えなかった。


「でしたら、僕の分をさんが選んでください」
「へ?」
「せっかく一緒に来たので」


 不思議なことを考える人だ。薄く微笑む彼の提案を断る理由は無い。むしろなんだかわくわくして、お利口さんに箱に並ぶおもちゃの指輪を見た。青赤黄色緑、それから透明。あまりにもわざとらしくて偽物であることをありありと主張する指輪に目を向ける。髪色が明るいから黄色がいいだろうか、知的な青や緑も捨て難い。


「じゃあ、昴さんが私の分選んでくださいよ」
「いいですよ。……そうですね、さんだったら……」


 少しだけ迷う素振りをして、彼は赤い星型の指輪を指さした。


「この、赤い花の……」
「え? これ花なんですか? 星だと思った!」


 そしてそれはちょうど、私が昴さんに選ぼうとした指輪と同じだった。角の丸い多角形はなるほど見ようによっては星にも花にも見えた。


「つけて差し上げますよ」
「へっ!?」


 あれよあれよという間に私の左手を取った彼は、偶然にも夏向けにと、爪に赤い花柄を宿した指先から一本選んで少し大きな指輪をするりと通す。柔らかいフリーサイズのそれを指で押し歪めて私の人差し指をキラキラ赤く飾った。
 じわじわと頬が熱くなって眩暈がしそうだ。


「ひ、人差し指…」
「おや、ほかの指がよかったんですか?」
「いっ、いえ、滅相もないです…」


 少しだけ残念な私を見てメガネの奥で密やかに笑う彼は、今度は大きな手の甲をふたつこちらに向けてきた。自分にもしろということらしい。少し迷ってからまずは左手をとった私に満足そうにほほ笑みかける。
 昴さんの手のひらは思っていたよりも大きくて熱っぽかった。ごつごつ節くれだって指にはタコがある。タバコを吸うのかどこかヤニ臭い。意外な程に男っぽくて、ドクリと胸が熱くなった。
 どうしていいか分からず彼を見上げると、昴さんはじっと待っている。人差し指に触れると、少しだけ首を横に振った。違うらしい。親指はさすがに太すぎて本来子供向けのおもちゃでは尺が足りないだろう。ならばと小指に触れると、痺れを切らしたようにくいと顎で隣を示した。
 薬指に触れると、正解だと言わんばかりに唇が弧を描いた。
 指輪を取り出して薬指を飾りたてる間、昴さんはただ何も言わずに頬を染めた私を見つめていた。


「────あれ、寝ちゃってた……」


 頬に張り付く皮製のソファから顔を上げる。気付けばたっぷり2時間ほど昼寝をしていたらしい。随分と懐かしい夢を見た気がする。ソファの皮が弾いた水滴はよだれなのか、涙なのか。
 店のおばさんが在庫を出してきてくれて、ふたりでお揃いにした指輪。わたしはどこにやってしまったのだろうか。捨てた覚えはないけれど、小さなものだからどこかでなくしてしまったのだ。あれから何度も引越しをしたし、仕方ないといえば仕方ない。日本にいるならまだしも、ここは遠く離れた米国だし。移住のためのトランクに指輪を入れた覚えがなかった。薄情といえばそうかもしれないが、もう忘れてしまいたかった気持ちも大きい。


「そうだ、日本……」


 たしか日本に送らなければならない書類があったはずだ。秀一から頼まれていたもの。忘れるところだった。
 起き上がってキャビネットからファイルを取り出す。赤井姓の印鑑が必要なやつだ。ハンコというのはまったく面倒なシステムである。たしか、そういった日本式の貴重品は本棚の収納ケースの一番上にしまってある。当然私が触れていいテリトリーに。
 いつもみたいに部屋に入って、いつもみたいにケースから印鑑を取り出した。手馴れた作業。手馴れた日常。だけどあんな夢を見たからか、もしくは薄々自分でもわかっていたのか。小さな違和感が降り積もって、私を愚かな道へと導いたのかもしれない。
 あるいはそれが、沖矢昴が唯一わたしにかけた呪いだったのかもしれなかった。あの人はいつも優しかったけど、不思議と私を彼の思いどおりに操る癖があった。一度だけ触れた手のひらの感触を声よりもずっと覚えているのは何故だろう。知っている温度と、タバコの匂い。
 ついと、何気ない動作で指先が収納ケースの一番下に向かう。開けてはいけない場所。鍵がかかっているわけでもない、ただの一つの引き出し。虫刺されを無意識に掻くように、目が疲れたら擦るように、何も考えなくても指がそう動いた。


 買いだめの電池と家具のおまけについてきたレンチの中に交じる二つの指輪。
 あの大小ふたつのサイズに歪ませた赤いペンタクルの指輪を見つけて、私は声にならない悲鳴をあげた。


   私の愛した男は一体誰だったのだろうか。