ロマンスまであと何海里

(原作前)



 自由恋愛というのがここ数十年での人類の流行だけど、モードに乗り切れない人間もいる。私の両親がそうだし、その両親もそうだ。それから私も。上手いこと世間一般の流れに乗れた従姉妹のお姉さんはむしろ相手が見つからずに「が羨ましいわ」なんて言っていたけど、だったら別に変わってくれても構わない。私だって共学に通って学校の先輩に淡いあこがれを抱いたりしたかったし、放課後制服デートとかしたかった。伝統とかいうカビの生えたチーズを大切にする私立女子校は不純異性交遊に殊更厳しかったし、相手の通う男子校もまた同じようなものだった。


 私と彼が婚約するということは、彼に数年遅れて私が生まれた時には……むしろまだ母の胎内で性別が判明した時には……決まっていたらしい。血筋と伝統という公式から導き出された簡単な計算。綾小路家の嫡男には家の次女を。あとから思えば長女の方が器量がよかったけれど、次女でもそう大きく変わりはないし、なにより長女は長女で綾小路の一人息子が生まれた時には既に他のふさわしい家と決まっていた。
 そんなことも露知らずすくすく育った小さな私は何も知らされないままに彼と引き合わされて「文麿兄さん」なんて呼んで無邪気に懐いた。彼は彼で私との将来を知ってか知らずか私をたいそう可愛がり、少しばかり年上として優しく甘やかし、私をますますつけ上がらせた。私と彼のある意味での蜜月だ。親は娘が将来の夫に懐いてそれはそれは安心しただろう。
 そう、はやめに姻戚関係を結ぶことを教えてくれさえすれば、こんなことにはならなかったのだ。


さん。文麿さんのこと、聞かはった?」
「わたしがあの人のことなんて知るわけないでしょう」


 姉さんは綺麗だ。既婚者になって子供を産んでもまるで鶴が人の身を取ったかのように美しい。久しぶりに遊びに来た姉は「すごく甘いものが食べたいなぁ」なんて笑って私をカフェに連れ出した。大きくてすごく甘いシナモンロールを一人で胃に収めていく姿を見るだけで私の胃がもたれそう。あんな細い身体のどこに入っていくのだろうか。


「警察官にならはるんやって」
「……はい?」
「やからねぇ、文麿さん。警察官になるって」
「…………ふぅーん」


 綾小路の一人息子が警察官ねえ。まぁ、あそこはあの手の家にしては比較的お硬くないほうだし、説得できたならそれもありえるだろう。第一、あの綾小路文麿は見た目に反して中々の傾奇者でマイペースで自己中心的だから必ず説得してしまう。一度言い出したら頑固なのだ。


「なんや、意外と驚かないのね」
「あの人の言い出しそうなことだから」
「さすが、フィアンセのことはお見通しってことやね」
「その言い方やめて!」


 不機嫌丸出しでブラックコーヒーに口をつければ、姉はあらまぁとまるで転んだ子猫を見るように笑った。


「いい加減拗ねんと。どのみち結婚はするんだから、昔みたいに仲良くした方がいいと思うけど」
「…………」


 最初から、婚約者だと言って紹介してくれればよかった。そうでなくともはやいうちに誰かが教えてくれていればまだしも状況は違ったのに。はじめで出会ってから7年後。中学入学を目前にした小学生六年生の時に、私立中学の制服を着た彼と学校帰りの私は引き合わされて、そうして両親は言ったのだった。
「いままで黙っていたのだけれど、文麿くんはお前の婚約者なんだよ」
 兄と慕っていた男と暗喩ながらも将来セックスしろと言われて、思春期入りたての女子が耐えられるわけがなかったのだ。恐慌状態に陥った私は落ち着くのに一月かかった。我ながら蝶よ花よと育てられた箱入り娘なので、過度な刺激に弱いのだ。あの時綾小路文麿はいったいどんな顔をしていたのだろうか。彼は知っていたのだろうか、知ってて、「文麿兄さん」なんて呼ばれるのを平気で笑って受け止めていたのだろうか。


 立派な東錦が大きな水槽の中を悠然と泳いでいる。外敵の居ない、美しく彩られた静かな宇宙。ぱくぱくと愛嬌たっぷりに口を開いてゆらゆら泳ぐ様は見ていて癒される。


「……はん、聞いとりますか」
「…………あなたが警察官になるという話でしょう。国家l 種に受かることと婚約者に話を通すならばとお家から言われたのでしょう。かまいませんよ、どうぞお好きなようになさってください」


 一瞬だけ彼を見て、やっぱり目をそらす。あの金魚の見事なこと。浅葱色も鮮やかに出ている。尾鰭の黒もまるで水墨画のように美しい線を描いている。
 彼が密やかにため息を吐くのが聞こえた。ささやかな和楽器のBGMだけが静かな個室に流れる。それから彼が箸を動かす少しの音。


「…………」


 ある程度食べてしまわなければ食事会の形式が果たせない。ぼんやりと卓に並んだ料理を見やるけれど、食欲はない。彼は私に直接電話しても出ないことを知っているので、親を経由して食事会をセッティングした。扱いを心得られているのも無性に腹立たしい。このままぼんやりしてても「体調が悪いんですか?」なんて心配してくるに決まっているので箸で小さく摘んで口へと運ぶ。食欲なくても美味しいのは美味しい。


「……学校のほうはどないですか」
「…………普通です。あなたのほうは」


 1体1の食事会なのだからどう転んでも話はしなきゃいけないらしい。無愛想に返す私に怒りもせず、彼は最近あった講演会の話をつらつらと語り出す。腹立たしいことに論旨をまとめた起承転結のあるわかりやすい語り口。普通、昨今の刑事ドラマと失われた盗難絵画と犯罪心理学が複雑に絡み合う話をこうも掻い摘んで上手く説明できるものだろうか。この男は何気に口が上手い。


「…と、こないな話してもつまりませんよね」
「…………続きは?」
「はい?」
「……いえ。私には大した話題もないので、どうぞ続きをお話になったら?」


 どうしてそこで話を切るのよ! と強く訴えたくなったけどひとまず抑えて、早口で続きを促す。しかし沈黙は続き、不審に思って見上げると彼は切れ長の瞳をぱちぱちと瞬かせた。この人、こんな顔だっけ。久しぶりにまともに見た気がするけど、少し痩せたな。じっと見上げられていることに気づいた彼の方が視線をそらし、「ええと、どこまで話しましたっけ」と間を持たせるように言葉を紡いだ。


「……盗まれたレンブラントについての話です」
「せやった。それでですね……」


 なんだこの男。先刻まであんなにすらすら喋っていたというのに。料理に視線を戻すと、ようやく目の前のラジオはしどろもどろと語り出す。話すうちに声の調子はだんだん緩やかに、落ち着いたものへと変わっていく。低く流れるような穏やかな声。私は礼儀として時折相槌を返しながら、遠い国へ持ち出された絵画のことを想った。

 

私だって絵画のように、生えぬいた場所からどこか遠くへ攫ってほしかった。


 好きにすればいい、と。少し年下の幼なじみはぶっきらぼうに言った。あまりにも脳内でシュミレートした彼女の反応そのもので驚いたほどだ。それきり、なにやら複雑な模様をした金魚が泳ぐ様を見ている。私は少しだけため息をついて、目の前の料理をつついた。
 昔は仲が良かったというのに。
 はじめて出会った日のことを忘れることはないだろう。親に紹介されたばかりの女の子は初めて出会った年上の少年に怖がりも恥ずかしがりもしなかった。赤い着物を翻して庭の鯉を眺める姿は、彼女の方こそひらひら泳ぐ綺麗な魚のようだった。しゃがんだ拍子に袖が汚れぬよう気にかけてやりながら「鯉が好きなん?」と話しかけると、「うん、綺麗やから!」と無邪気に笑った。
 着物の帯も袖も気にせず庭を跳ね回るので、転びかけたり木にひっかかりかけるのを止めてやり、木登りしたがるのを宥めて1時間ばかし遊んであげた。生来人懐こいのか彼女はすぐに「ふみまろお兄ちゃん」と言って後を付いてくるようになった。一人っ子の自分には馴染みのない響きだったが、刷り込みされたヒヨコみたいに後ろを付いてくる様は悪くない。誓っていうが、妹のようだと思ったことは一度もなかった。だって、一目惚れだったのだから。
 ヒヨコが自分の未来の妻だと知ったのは、「ふみまろお兄ちゃん、またね」と笑って彼女が帰ったあとだった。
 次に会った時、「お兄ちゃん」などと呼んでくるのを窘めるべきかどうか迷ったが、結局止めた。あんなに楽しそうな顔で呼ばれたら何も言えなくなってしまう。あとから思えば不誠実だった。呼び方が「兄さん」に変わった時こそ止め時だと思ったが、「文麿兄さん、蟻の観察行こう!」と夏の自由研究に没頭する彼女を手伝うのが忙しくてタイミングを逃した。二人で熱中症になって双方の親からしこたま怒られたし。
 どうあれ、子犬のように懐いてくるのが可愛かったのだ。今から思えば呼び方一つ、適当な理由をつけて止めさせればよかった。そうすればあそこまで彼女を傷付けなかっただろう。だが自分だって子供だったのだ。初恋の女の子に兄と呼ばれ続けるのに少しも傷つかなかった訳じゃないし、だからこそお互いのために早く訂正すべきだったと後悔しても後の祭り。
 そうして彼女が小六の冬、真実を告げられて泣き出した時に思い知った。
 自分は大切な女の子からの信頼を裏切ったのだと。
 思春期入りたての少女の警戒網がきっちりと働いて、兄貴分への好意をすっかり嫌悪に翻した彼女は、一月は落ち着かなかったという。彼女の両親も、あまり小さい頃から政略結婚の相手だと意識させるのはよくないと思ってのことだったらしいから、これは誰も責められない。
 目の前の婚約者はちびちびと食事を食べ進めている。元よりそう多く食べるタイプではないが、少食に拍車がかかっているのは気のせいではないだろう。彼女にとって私はトラウマが人の形をしているようなものであるし、それを目の前にして食が進むわけがない。けれど、どうあれ自分たちの末路は同じ墓に入ることで収束する。あの日の彼女があれほど嫌悪したセックスだってするだろうし、お互いがきちんと噛み合えば子供だって産むことになる。残酷なことに、それを周囲に求められた上での関係だ。こんなことではやっていけない。
 会話の取っかかりを探して学生生活について尋ねるが、あからさまに不機嫌な様ではぐらかされる。仕方なく、先日あったばかりの講演会の話で場をつなぐ。自分は決してコミュニケーションが上手な方ではないし、彼女が相手なら尚更だ。どうにか掻い摘みながら一部始終を話すけれど、こんな話きっと退屈だろう。少なくとも我が母は大変つまらなそうに聞いていた。
 は話すら聞いていないふうに、相槌を打つことも視線をこちらに向けることもせずただ目の前の物を口に入れて咀嚼している。少しだけウサギのようだ。打っても響かない鐘に相対し続けられるほど人間は強くない。早々に切り上げようかと様子を伺うと、はやはりこちらを見ぬままに「続きは?」と涼やかに問うた。驚いてじっと彼女を見れば、「私には大した話題もないので、どうぞ続きをお話になったら?」と早口に促される。怒っているのか、それとも嫌味か。判断がつかずについまじまじと見つめてしまった。彼女は不審そうに顔を上げ、つんとした目付きで私を見上げる。唇を尖らせたいかにもな不機嫌顔。初めて会った時と変わらない、くるくる変わる百面相が得意な少女の面差しがそこにはあった。
 近頃は8割がた仏頂面しか見せてくれないけれど。


「……ええと、どこまで話しましたっけ」
「盗まれたレンブラントについての話です」


 久々にじっと見つめられて、胸に冷えた痛みが走る。ああ、心臓に悪い。形容しがたい感覚が身体を覆い、ひどく喉が渇いた。どうにか言葉を絞り出すと、彼女は「ふうん」と小さく相槌を打った。それが馬鹿みたいに嬉しくて、少しずつ元の調子を取り戻すように語り始める。所詮自分もええかっこしいの男の身であるので、愛らしいと思う娘がふんふん話を聞いてくれるのが楽しくて仕方ない。それも、相手はもう何年もにこりとも笑ってくれない婚約者だ。咀嚼しているのか頷いているのかわからないくらい小さな揺れでも、私にとってはなにより大きな出来事だった。
 一通りの話題が尽きるまで、彼女はちびちび料理を片しながら静かに話を聞いていた。