ウラシマ・エフェクトの氾濫

(未来設定/くっついてる/記憶退行)




 やけに重い瞼をこじ開ければ、まぶたを通した赤い光から陽光きらめく白い光が飛び込んできた。眩しさに目を細めて、ようやくそれがただの白い部屋だと気づく。鼻につく消毒液の匂い、嫌いになれないその独特の匂いは病院を思い出す。
 さらさらして重いシーツを指でゆっくりなぞって、ふと気付いたら頭が痛い。違和感にゆっくり腕を持ち上げて頭部に触れたら、硬い包帯の感触。
 怪我をしている。


「ここ……」


 思い出すも何も、どうやらここは病院だ。見覚えがあるような…ないような…。なんだか頭がぼんやりしてあやふやだ。何故怪我をしているのかもわからない。最後の記憶を探っても朧気に気だるい昼下がりの授業中の風景しか浮かばない。眠い現国。
 そこ行くと私の格好はどうなのだろう。入院着に包まれた身体はたしかに私のものなのに、どこか違和感が拭えない。ぐーぱー握った足の指は確かに私の指示通りに動くのに。なんだろうこの言い知れないおかしさは。ふと腕を上げると、シンプルなネイルを施した爪が目に入る。こんなのしてたっけ? あまり長いと捜査の邪魔になるけど深爪はそれはそれで不便なので、ゆるく伸ばしてうっすら赤く染まる保護マニキュアをしていた記憶はある。けどオフホワイトのフレンチネイルにした記憶はない。
 左手の薬指の爪にだけハートマークが描かれていて、指の付け根にはシンプルなシルバーのリングが嵌っていた。


「……?」


 なにこれ。なんか普通にキモくない? 指輪って。しかも左手の薬指って。
 外してみようとしたところで、誰かが部屋に近づいてくる音がする。どこかで聞いたことのあるようなリーチの長い足音、それが今にも走り出したいように、それをギリギリ我慢するようにつま先に力を込めて駆けてくる。あっという間に部屋の前にたどり着いたその人はガラリと引き戸を開けた。個室の病室であるから、お目当ては私しかありえない。


はん…!」
「あ、あや……のこうじ、けい……ぶ?」


 警部……? こんな顔だったろうか。目元のシワはこんなに深かった?頬はこんな感じだった?
 紛うことなき警部である。流石にそれを見間違えたりしない。けどこんなにダンディで渋かったっけ? 髪の毛なんか少し白んでいる気がする。
 呼ばれた彼は目を見開いて、きゅっと眉根を寄せた。それから少し上がった息を整える。ベッドの上で縮こまる私にゆっくりと近づいて、しゃがんで目線を合わせた。


「……よかった…」
「へっ」


 目尻に優しいシワが浮かぶ。安心したように息をついた彼は腕を広げて、ぎゅうと私を強く抱きしめた。


「ひぇ!?」
「よかった……。あんさんがひったくりと揉み合って病院運ばれたなんて聞いたから……気が動転してもうて……」
「は、はぁああ……!?」


 待って!? 待って待って待って!! なんでこの人抱きしめてるの!? ていうか私ひったくりと揉み合ったの!? いややっぱりなんで私抱きしめられてるの!? この人こんな雰囲気の人だっけ!? ていうかなんで少し涙声なの!? 泣くほどのことが私にあったの!? あ、そうかひったくりと揉み合って……。いややっぱり一から十までよくわからない!
 彼の腕の中で縮こまりながら、必死に頭の中を整理する。おかしい。決定的に何かが間違っている。


「あんたになにかあったら私はもう生きられへんのや……お願いやから、無理せんといて……」
「け、けいぶ……?」
はん……」


 ふいに肩から離されて見慣れているはずなのに見慣れない顔がじっと私を見つめる。間近で見てもやっぱり……────老けてる。なにか心ときめくことを言われた気がするが、そんなこと聞いてる暇はない。警部の大きな手が私の頬に添えられて、少し顎を傾けられる。
 ぐっと大人の色気を増した端正な顔が近づいてきて────


「っ……いや!!」
「ぶっ!?」


 いくら相手が警部であっても、混乱のままロマンスの欠片もなくファーストキスを奪われてなるものか。思わず突き出してしまった手は彼の高い鼻にクリーンヒットした。あ、しかも左手。指輪が当たってめっちゃ痛そう。


「逆行性健忘ですね」


 お医者さんは本人よりも、背後にいる夫に語りかけるように言った。はそんな様子に不安そうな顔をして斜め後ろの私をちらりと振り返る。今朝は行ってきますのキスをねだってきたのに、その時のキラキラと愛に満ちた表情はどこにもない。
 ひったくりにあった老婦人を庇い犯人と揉み合った妻が怪我をしたと聞いた時は気が動転した。それでも、それ故に、職務を続けようとした私は、よく出来た部下達のサポートによってすぐさま病院に駆け付けたのだ。道中、今朝強請られたというのにやらなかったキスのことを思い出した。彼女に何かあったらどうしよう。急いでいたし恥ずかしかったから拒んでしまった、もしもそれが最期になったら。
 ひどく後悔して、だから思ったよりも軽傷でベッドに座る彼女を見た時に衝動のままに触れてしまった。何故か「警部」と呼んできた違和感もあっさりとスルーして。


「奥様の場合は17歳頃まで記憶が退行しているようです。明日には退院できますが、記憶の方はしばらく様子を見るしか……」


 17歳。まだ自分が彼女の想いを受け入れていなかった頃だ。彼女自身も私に甘えきっていて、私が絶対に彼女を好きにならないと安心しきっていた。今から思えば、私はあの時既に言い様のない恋慕を抱いていた気もするが。
 ともかくそんな安全な男にキスされそうになったのだ。精神が17歳になっているにとってはかなりショックだったろうに。先程だって自分がもう20代になっている事実や、私と結婚して苗字が綾小路に変わっている事実を目を白黒させながら聞いていた。隠せることではないとはいえ、可哀想なことをした。もうちょっと衝撃を減らして教えられたらよかったのに。
 医者に礼を言ってから部屋に戻る時も、は無言で私の後ろをついてくるだけだった。17歳としてのおしゃべりさも20代としての気遣いもない、ただ静かな患者がそこには居た。


「えっと……せや、スマホのメッセージとか見たらなんか思い出せるんとちゃう?」
「スマホ……」


 テーブルに置きっぱなしのカバンからスマホを取り出してやる。先週最新式に買い換えたばかりだというのに、もみ合ったせいか画面が割れてしまっている。


「うわ、これ使えるんかな」
「貸してください」


 手渡すと、身体が覚えているのかそれとも癖というのは変わらないものか、いつものように親指をセンサーに当てて指紋認証でロックを解除した。どうやら内部の基盤までは破損していないらしい。パスコードを入れずに開いたそれには首を傾げる。


「あれ? パスは……?」
「ああ、指紋認証や。が親指で登録しとったから」
「へぇ……便利ですね。犯人とファイトして記憶なくしても使える〜」


 笑いづらい不謹慎なギャグを言ってくるところは、17歳も20余歳もそう変わりない。


「入ってええよ」
「お、おじゃまします…?」


 首を振ればは少し困った顔をして、それから正解を口にする。


「……ただいま……?」
「ええ、おかえりなさい」 

 一日で退院できたは(頭の怪我は本当に大したことないらしい。我が妻ながら恐ろしい程に丈夫で幸運だ)、連れてこられた見知らぬマンションに困惑して呆然と突っ立っている。ふたりで決めて、数年一緒に住んでいる我が家のこともすっかり記憶にないらしい。玄関先でどうしていいかわからず居場所なさげな彼女をリビングに促してソファに座らせる。そのソファベッドでだって散々スキンシップを取ったというのに。


「病院の食事はつまらんかったやろ。いまなんか作ったるから」
「け、警部が作ってくださるんですか!?」
「警部やないです」
「……ふ、ふみ、まろ…さん」
「よろしおす。怪我人なんやから座っときんさい」


 名前を呼ぶだけでボッと火がついたように頬が染まるのは久しぶりで新鮮だ。慌てて立ち上がろうとした彼女を手で制して再び落ち着かせ、ラックにかかった紫(妻曰くオールド・パンジー)のエプロンを身につける。その隣の黄色い(曰くミモザ)エプロンは彼女のものだけど、しばらくは使わせないでおこう。17際の頃のはそんなに料理が得意じゃない。大雑把で大味だった。なんなら今でもその片鱗は残っている。


「ふぇ……え、エプロン似合いますね」
「おおきに。あんさんが選んでくれはったんや」
「……ご、ごめんなさい」
「なんや。謝ることちゃいますよ」
「だって、思い出せない……」


 カウンターキッチン越しに見える彼女は所在なさげにソファの上で縮こまっている。いつもよりずっと小さく頼りなく見えた。当然だ、記憶が無いのだから不安にだってなるだろう。これで伴侶が旧知の相手でなく記憶のない間に出会った人だったらさらに大事だったかもしれない。ちょっとしたサスペンスホラーだ。
 は何度かなにか言いたげに口を開いて、そして閉じた。実家の錦鯉みたいにぱくぱくしたあとようやっと声が出る。


「その……私たち、いつから……」
「付き合い出したんはあんさんが成人してからやな。結婚したんは一昨年。写真見ます?」
「見ます!」


 本棚の一番下、と指で示してやればは厚いアルバムを引き抜く。膝の上に乗せてぱらぱら捲る指はどこか強ばっていて覇気がない。式の写真を見つけて、きゅっと眉根を寄せた。


「……どないしたん?」
「あ、いえ……ほんとに結婚したんだなぁって」
「戸籍でも取り寄せます?」
「そっ…そこまで疑ってるわけでは! ただ思い出せないの、悔しくて」
「悔しい?」
「だって告白もデートもプロポーズも式もぜーんぶ忘れちゃって……。私のけい…文麿さんへの思いってそんなものだったのかな…」
「なんや、精神論で言うても仕方あらへんよ」


 私はあんさんが無事なだけで嬉しいんやから。そう素直に告げればは頬を染めて俯く。耳まで真っ赤だ。可愛らしくてたまらない。抱きしめたいけど、今は許されないだろう。キスだってできない。最愛の人がそばに居るのに触れ合えないだなんて。まるでなにかの罰のよう。


「もし……」
「へ?」


 ほとんど消え入りそうな細い声で、がなにか言いかける。ぼんやり考え事をしていた私が顔を上げると、妻と目が合った。いつも通りの顔、いつもと違う表情。だから感情が測れない。


「……なんでもないです」


 そう言って彼女は笑った。こんなことになって以来初めて見る笑顔はぎこちなくて心が痛んだ。


「おいしい!」
「キチンライスだけならおかわりありますよ」


 夕食のオムライスはタマゴの焼き加減もチキンライスの酸味も私好みで美味しかった。警部の手料理なんて初めて食べる。この人料理までできるのか。惚れ直してしまうけれどなんとこの方私の夫である! ほんと、なんで記憶が無いかなぁ……。


「ほらここ、ついてはるよ」
「ひぇっ」


 しなやかな指がすっと私の唇の端を掠めた。トマト色に染まったケチャップライスが1粒、その指にくっついている。私はそれに負けないくらい顔を赤くして彼を見上げた。


「す、すみません……」
「そんなに美味しかったん?」
「はい…!」


 いい歳して(しかも見た目は本当に大人である)なにをやってるんだろう。恥ずかしくて手の甲で唇の端を擦る。警部は見たこともないような温度で優しげに瞳を細めた。ああ、なんだこれ。この人ってこんな顔もするんだ。心臓が早鐘を打つ。胸が苦しい。


「か……片付けは手伝います」
「ほんまに? ええんやで、座っとって。あ、先に風呂でも……」
「おふろ…。あ、でも髪まだ洗えませんよね」
「2、3日濡らしたらダメやって言いよったね」


 退院はできてもしばらくは自宅療養だ。うう、乙女として好きな人の前で清潔でいられないのは普通に辛い。しょぼくれる私が哀れだったのか、警部は薄い眉をハの字に下げて頬をかく。


「手伝ったってもええけど…」
「手伝……………まって、一緒にお風呂ってことですか!?」
「あ、いや。せやな、今のはんはダメやんなぁ」
「“今の”って何!? 一緒に入ったりもするんです!?」
「……まぁ、偶にはな」


 少し上ずった、照れ隠しみたいな声をした警部は食洗機をかけるそぶりをしてそっぽをむいた。


「なっ……ええ、は、裸で!?」
「あんな、あんたと私は結婚しとるんやって」
「待ってください、もしかして一緒に寝てる……!?」
「…………」


 無言は肯定。彼はさっきから誤魔化すように台拭きを洗って絞って洗って絞ってと繰り返している。そうだ、夫婦ってそうなんだ……。わなわなと手が震えて警部の顔をまともに見れない。恥ずかしすぎて幸せすぎて泣きそう。もう私、警部とちゅーもできるし抱きしめてもらえるしもっと先まで行けるんだ。昨日はなんの心の準備もなくて拒んでしまったけど、なんて勿体無いことをしたんだろう。


「け、けけけいぶ! おふろっ、はいろっ!」
「落ち着き、今入ったら絶対逆上せるから落ち着きぃや」


 あ、でも警部に裸を晒すことになるのかな? それは恥ずかしい、実に恥ずかしい。無理だ。警部からしたら見慣れてるのかもしれないけど、そこまで覚悟ができない。──いいやいまこそ決めるのよ、ほらほら一線越えたら記憶が? 戻るかも? しれないし? ね!?


「け、警部の裸も見れるし……!」
「いや、よしんば風呂入れたるとしても私は服着とりますからね?」
「なんでですか!!」


 ひどい! 抗議する私を呆れた顔で見下ろして、水周りを片付けた警部はダイニングへと足を向ける。目の前に来た渋い紫色をたどって見上げれば端正な顔が視界に入った。エプロン似合ってるなぁ、いいセンス。やるじゃん私。そんな私の考えはつゆ知らず、彼は不敵に口を歪める。ひょいと口の端を上げた、たまにやる皮肉っぽい笑顔。表情の作り方は何年経とうと変わらないらしい。


「別に一緒に入ったってもええですけど」


 長い腕がテーブルに手をついた。たじろいで少し身を引くけどそんなのは微々たるもの、ずいと近づいてきた警部の顔に驚いて目を逸らす。


「う、わっ」
「私の背中も流してくれはりますか?」
「ひぁっ!?」


 低い耳元で囁かれて背筋がゾクゾク粟立つ。耳たぶに微かに唇が触れたのはわざとなんだろうか。カッと頬に熱が灯る。きゅうと視界が揺れて心臓がどくどくと脈打った。警部はひらりと身を離して、「できひんやろ?」と会心の笑みで念を押す。茹で蛸になってぱくぱくと唇を動かしはしても、二の句が告げぬまま私を満足そうに見下ろしている。あ、遊ばれた……!


「うわーん! 警部に弄ばれたー!」
「!? 人聞きの悪いこと言うんやありまへん!」


 すっかり顔を赤くしてぎこちなくなってしまった私は、くすくす低く笑う警部から逃げるように風呂場にやってきた。髪の毛に関しては今日は諦めるしかない。カットソーを脱いで鏡に向かうと大人になった自分の姿が映る。不思議な感じ。私だけど私じゃない。
 鏡の中の女性は目を白黒させながら自分の肢体を見ている。大人っぽいブラジャーから覗く胸は記憶よりやや豊満だ。揉まれてるのかな、揉まれてるんだろうな。そんな馬鹿みたいなことを考えていたら不意に先ほどの耳たぶの感触を思い出して肩がぴくりと跳ねた。やめよう、こういうこと考えてると頭が沸騰してしまう。
 微かに頬に指した赤み消し飛ばすように冷たい手で頬を覆うと、左手の薬指に嵌った指輪が目に入った。細身でシルバーのそれは上品そうにちらちらと輝いて存在を主張している。
 指から引き抜いて内側を覗き込めば、日付とイニシャルがシンプルに刻印されたいた。


「……結婚記念日、かな……」


 小さな装飾品を無くさないよう、洗面台のリス型のアクセサリートレーに入れる。この対を警部が持っているだなんてやっぱり変な感じだ。
 汗ばむ身体からホックを外してブラジャーを緩ませる。帯状のそれを身体から外して再び鏡を向き直ると、日に当たらない白っぽい肌の上に目を疑うものが刻まれていた。


「な、なにこれっ……ええ!?」


 赤い乳首のすぐ横、白い肌に浮かぶのは確かに内出血のあと。鬱血痕。赤茶に浮かぶキスマークであった。


「ん? どないしたん?」
「…………」


 リビングで新聞を読んでいると、あったまって頬を上気させたがもの言いたげな顔でやってきた。毛先だけ少し湿っている。パジャマの襟元をぎゅうと両手で握りしめて、瞳は少し困惑したような色をしていた。なにかあったのだろうか。安い質感の紙束を置いて身体を向ければ、「あの……」と遠慮がちに声をかけられる。


「これ、は……」
「!」


 固く握られた拳が解けると、パジャマの胸元がおおきく開いた。第4ボタンまで開けられたそれは白い谷間をほとんど露わにする。ギリギリのところで布地が乳房の赤い飾りから外側を隠している程度だ。柔肌につけられた赤褐色の印が目に飛び込んでくる。。すっかり忘れていた、数日前の夜につけたキスマークだった。


「あ、あの……それは……」
「これ…けいぶ、が?」
「……ええまぁ……そうです」


 は顔を真っ赤にして自分の肌についた情交の跡を見下ろす。そんなに胸元を開かれては、正直言って目に毒だ。今の状態のをまさか抱くわけにはいかないし。
 つい、癖で手を伸ばしてボタンを留めようとパジャマの襟元を掴んでしまう。指先が微かに柔い肉に触れた。


「ひゃっ…!?」
「っ!?」
「っ………」


 甲高い声を上げた彼女は慌てて口を噤む。自分で自分の嬌声が信じられないようだ。何が起こったかわからないようで、瞳にじわじわ涙が溜まっていく。
 の記憶にはあらずとも、とっくに大人になった彼女の身体は何度も肌を合わせてきた。その感覚を身体が覚えているのかもしれない。微かな刺激が性的興奮を刺激してもおかしくはなかった。


「か、堪忍な。ボタンしめたろうとしただけで…」
「う……うん……」


 軽率に触れてしまったことを猛省して、少し逃げ腰になってしまう。潤んだ瞳がモノ欲しげにこちらを見上げた。今そんな目で見られたら、せっかく固めた理性がグラグラ揺らいでしまいそうだ。


「けい……、ふみまろ、さん」
「な、なんですか」


 名を呼ばれてどくりと心臓がはねた。まだ記憶は戻っていないはずだ。はぎゅうと自分の胸を抱きしめるように腕を回す。無意識なのだろうが、随分と煽るものだ。
 付き合いが長いせいなのか、彼女が何を欲しているのかは言われずと理解出来た。


「文麿さん……」
「……あ、あきまへん!」
「なんで……私、もう大人なんですよ。け、結婚してるんでしょ!?」


 腕に飛び込んできた身体を抱きとめる。柔らかくて暖かくていい匂いだ。17歳の彼女と明確に違うのは、女性らしい色香だ。男を知って番を得た女性の艶やかさは心をくすぐる。当の番が自分なのだから当然である。


「それでも、あきまへん」
「なんで……」


 ぽろりと涙をこぼす表情は、やはり子供のものだ。不思議だ、同じ顔なのに心の持ちようで泣き顔は変わるらしい。それだけ彼女が子供で、決して私の妻ではないからなのかもしれない。
 やはりこのは17歳の、私が守りたかった子供でしかないのだ。そう思うと微かに燻りかけていた熱もすっと冷めていく。


はん。ほら、そんなに泣かんで…」
「……」


 ぐすぐす鼻を啜るの目尻を拭ってやる。涙に濡れたまつ毛をぱちぱち瞬かせる彼女の肩を撫でてやると、すりすり頭を擦り付けられる。懐いた猫のようで可愛い。


「ひどいんだ……けいぶ。女の子に恥をかかせた……」
「堪忍なぁ。あんさんが“女の子”の間は、私は絶対にせぇへんよ」
「なにそれ……」


 髪の毛を梳くように撫でれば、元々慣れぬことばかりで疲れていた彼女はどこか口調も重く舌っ足らずに離す。眠いのだろう、疲れて温まって泣いたのだし。本当に猫みたいだし、本当に身体以外は子供なのだろう。


「私があの時守りたかったんは、あんさんの身体だけやのうて、心もなんです」
「ぅん……」
「それに、未来も。あんたの心が大人になりきれへん間は、どんなに身体だけ大人やろうと……私にとっては可愛い子供のはんです」


 きゅ、と細い指がシャツをつかむ。ぽんぽん背中を叩くと心地良さそうに身じろぎした。とくんとくんと、小さな心臓が動くのを感じる。胸元にキスマークを付けるのが好きだ、彼女の鼓動を一番近く感じるから。一から十まで守らなければいけないほど弱くないのは知っていたけど、それでも17歳の彼女を守りたかった。彼女がどんな大人になるか見たかったから。大人になった彼女の隣に居るのが自分だとは、到底想像出来なかったけど。


「けいぶ……」
「んー…?」
「わたしのことすき……?」
「好きやで。17歳のあんさんも、私の奥さんになったあんさんも」


 眠そうに間延びした声に低く答えてやれば、は少しだけ機嫌を直したようにくふくふと笑った。


「もし、わたしの記憶が戻らなくても……」
「…そうなったら、プロポーズもし直さなあきまへんなぁ」


 いよいよ眠りに落ちそうな彼女の体を抱えあげる。昔は軽々抱えられたけど、近頃じゃちょっと重いのは秘密だ。彼女のせいなのか、私の筋力が衰えたのか。首に回ってくる華奢な腕を見る限り私は白鳥を見習ってジムにでも通った方がいいのかもしれない。


「愛してます、はん。例え全部忘れてもうても、また私を愛してください」


 数日後、あっさり記憶を取り戻したは布団に包まって楽しそうに笑った。


「文麿さんのこと、尊敬します」
「……まぁ、正直ぐらつかんかったわけではないけど……」


 不接触を誓ったとはいえ、据え膳ではあったわけだし。記憶が戻るまでの数日間何度か危うい時はあったけど、なんとか過去の自分に恥じぬ我慢はできたと思う。無事大人に戻った彼女は御褒美と言わんばかりに、つい先程まで随分と楽しませてくれた。


「ちがいますよ。私から逃げなかったことです」
「逃げる?」
「うーん……目をそらす、とでも言うんですかね」


 だって結局、17歳のときから私が大人になるまで、文麿さん誰とも付き合わなかったじゃないですか。
 そう言って妻はもそもそ浴衣を羽織る。しんどい身体にしてしまったのは自分なので、責任取って襟を合わせて帯を締めてやりながら彼女の言葉を反芻する。きっと、自分は彼女が17の頃からとっくに絆されていたのだと思う。ただ、恋心を自覚しなかっただけで。
 たしかに彼女から目を離したことは無かったけど、自分の本心からは目を逸らしまくっていた。それを随分いいように捉えてくれたらしい。妻の欲目もあるのかもしれない。「沢山待たせてごめんね、あなた」と笑う彼女の頬に口付けを落として、小さな身体を抱きしめる。浴衣の合わせから覗く真新しい鬱血痕が鮮やかに目に付いた。