03




 恋愛感情には寿命がある、らしい。
 一説には三年。脳内麻薬のせいだとか、性ホルモンのせいだとか、その他なにかと理由や理屈が語られたり騙られたりしているらしいが。まぁ、そうだろうなとすとんと納得する。どんなものであれ、たとえ精神的なものであれ、この世界は消費されるものしか存在しない。なんであろうと時がすぎれば目減りして、最後には消えてなくなってしまう。恋だって同じだというだけの話。人が生まれて死ぬように、恋も生まれて死んでいく。それを寂しいと思う気持ちもそのうちに風化して、人々はほかの誰かを愛する。人間の基本原理。尊く誇らしく浅ましい本能。なお、恋と愛の違いについて語るのはこのパラグラフでは避けることとする。

「おはようございます、警部。今日も素敵ですね!」

 警部はオシャレさんだ。ダークカラーのシャツにストライプのネクタイ。着丈の揃えられたスーツは誂えられたように、というより実際に誂えたものなのだろう。すらりとした、しかし柔軟に鍛えてある細身の身体にそれらはよく似合っていて、見る度にほれぼれしてしまう。
 ちなみに、学校が終わってから来たのでおはようと言ってももう夕方。

「おはよう。ほな、よろしゅう」

 なにを、とは言わない程に私達はこのやり取りをこの部屋で繰り返してきた。京都府警察署の中のとある一室。雑然と備品を積み上げられて、半ば物置ではないかという部屋。地震かなにかで倒壊させて、誰かを未必の故意で殺めるためにあるのかというふうに積まれるダンボール。規則性なく散らばったホワイトボードやらパーテーションやらなんやらは、捜査本部を設置する時に大わらわであっちこっちに動かされるものだ。真ん中に置いてある机だけが、この部屋が物置ではなく作業スペースだということをぎりぎり示していた。そこに適当な椅子を引っ張ってきて、私は受け取った書類を広げた。いかにも女子高生な丸っこい字で細々と報告を書き連ねていく。これを纏めて精査したら、とある事件の立派な関係資料となるのだ。多分まとめるのは車折刑事あたり。

「…………」

 書いてる途中で言葉選びに迷って、ふと向かいに座る警部を見上げると、彼は彼でシマリス先輩を肩に乗せたまま、なにやらラップトップに向かってデスクワーク中であった。こんなけったいなところでやらずとも、彼には彼で立派に専用デスクがあるだろうに。

「いつも思ってるんですけど、一課に戻らないんですか?」
「ここのほうが静かでええ。私がここに居るんはみんな知っとりますし」

 いつでも連絡さえ取れるのであればそれでいいらしい。私という外部のお客様が来ているので放っておくわけにはいかない、というのもあるだろう。いや、お客様というには随分雑然とした部屋を宛てがわれているが。半ば自分で望んだことである。最初の頃は一課の隅やら空いた会議室やらでやっていたが、そこは皆様お忙しい警察組織。慌ただしく舞い込んでくる事件や雑務、外部の人間がいる場所では話せないことや見せられない資料やら、そんなものが行ったり来たりする度にお互い気を使い合うので、じわじわと場所が流れて最終的にこんなところにまで行き着いてしまったのだ。めったに人が来ないし、来たとしても備品を出し入れするだけなので大した問題は無い。折りたたみ式の長机やスタッキングチェアに機密情報が載っている可能性は少ない。
 無いとまでは言いきれないのが、悲しい探偵の性である。

 沈黙は流れ、彼がキーを叩く音と私のペンが不規則に紙を擦る音、時折鳴くシマリス先輩の声だけが静かな部屋に響く。警察署のなかでも隅っこの方に位置する、ほとんど誰も来ない部屋。警部ってえらい人なのになぁ。こんな窓際族のカリカチュアみたいな部屋にいるの似合わないなぁ。

「……そういえば、先日の怪我の具合はどないや?」
「ん? ああ、元々大したことありませんし、もう大分いいですよ? ほら」
「あほ! 見せんでええわ!!」

 スカートの下、ちょうどスパッツの裾あたりから広がる内股の青あざ。もう随分小さくなって、思い出した時にだけ痛むようなそれは先日の捕物の際についたものだ。見えるように足を上げたら警部は慌てた顔で目をそらして、ぱたぱたと手のひらを振る。しまえというジェスチャー。
 主人の大声にびっくりしたシマリスがオロオロと狼狽えてから、胸ポケットへと戻っていった。大人しく脚を戻すと手でシマリスを撫で撫で、目を釣り上げた彼が「二度としたらあきまへんよ」なんてしかめつらしく言う。

「やだ、軽いジョークじゃないですか」
はんにとっては冗談でも、受け取る方は違います」
「どう受け取りました?」
「…………」
「あ、黙秘権!」
「……あんさんがそんなんやから私が……」

 大人しく続きを待ってじっと見上げると、警部は少しひるんだ後深く深くため息をついた。生徒指導に悩む先生みたいだ。彼がもう1度何か言いかけようと口を開いたところで、部屋に響く電子音。

「はい、綾小路……なんやて!?」

 今度こそシマリスは飛び上がって私の胸にダイブした。警部は携帯からわめきたてられる事件の概要を聞きながらそれをちらりと見る。慌ただしくパソコンを片付けて、警部は通話を切った。

「すんまへん、ちょっと出てくるわ」
「お手伝いは?」
「いりません。そん子頼んますわ」

 はーい、といい子ちゃんに返事する私にやっぱり何か言いかけて、口ごもる。今日は随分歯切れの悪い。私もやっぱり、じっと耳を傾けて次のお言葉を待ちわびる。

「……なんかあったら電話しなさい」

 それだけ言って出ていった主人に、シマリス先輩と私は目を見合わせて首を傾げた。


「───……」
 あ、とでも声を出せばよかったけれど、ぱっかり開いた口からは何も出なかった。いやなんか、びっくりしちゃって。そのまましばし呆然として、そっとスマホの画面をつける。
 まさか部屋の電気消されるとは。
 表示された時刻は既に夜。退勤時間はとっくに過ぎていて、署に残るは夜勤の人と、残業の人たちばかりである。まったく人がいないという訳では無い、むしろ結構な人数が残っているであろう時刻ではあるが、人のいない場所の電気は消えていく時間帯。昨今は節電とか五月蝿いし。
 この部屋のような、滅多に人の寄り付かない静かな場所の電気は同フロアにある主電源から消されるのは仕方ない。仕方ないけど一応確認くらいしてほしかったというかなんというか。書類、まだ途中だし。
 蛍雪の功さながらに書き物をする程真面目ではないので書類は諦めることにして、腕時計のライト機能をつける。ホラー映画じみた心もとない明かりで雑然とした部屋の荷物を避けながらドアまで進み、ノブを捻るけれど。

「……閉まってる」

 いつの間にか施錠されたらしい。たしか、ここ電子ロックだっけ? どのみち電気消した人がロックしちゃったんだろう。内側からの鍵はない。密室。暗室。退出不可能。殺人事件が起きるにしては私とシマリスしかいない寂しい部屋だ。
 申し訳程度の青い非常灯もあるし、エアコンは切れたけどまだ過ごしやすい時期だし、気長に警部を待つとしよう。私はともかく、シマリスを忘れるほど薄情な人ではない。

「…………“なんかあったら電話しなさい”……」

 と、確かに言っていたな。果たしてこれは何かあったと言えるのか。ここは生活安全のお膝元な警察署だし、署内にはまだたくさんの人がいる。高層階だから窓からは出れないけど、同時に入っても来られない。警部は私たちがここにいることを知っている。入館履歴を見ればまだ私が署外へ出ていないことはひと目でわかる。
 お腹は空いているけど、そんなのはリスちゃんも同じだし。シマリス先輩がいるんだから、遠からず戻っては来るだろう。
 つまり何事もなく、いつも通り。宿題を忘れたくらいに大したことない日常にありがちなアクシデント。

「……ま、いっか」

 腕時計ライトがシマリス先輩の目に直撃しないように気をつけながら、私は真っ暗い部屋の中で椅子に座るのも億劫になって体育座り。擦り寄ってくる暖かい小動物の鼻先を撫でた。

「お前のご主人様はどれ位で戻るかね」

 わかっているのかわかっていないのか、シマリス先輩はキュッと鳴いて私の髪の毛を掻き分けてパーカーのフードに収まる。くすぐったくて暖かい。人懐こくて手のかからないいい子だ。

「私もシマリスなら、警部とずっと一緒にいられるのに」

 ゆりかごから墓場まで、警部に看取ってもらえるのだ。家でも仕事でも一緒で、いつもあんなに優しく名前を呼んでもらえて。いいなぁ、なんて羨ましいんだろう。探偵として能力を買われて側にいられることはとても誇らしいのに、時折自堕落で貪欲などうしようもない根底が顔を出す。ただそこにいるだけで愛されるなんて、心の底から羨ましい。
 シマリスの寿命はおよそ10年足らず。それだって、私の恋の寿命よりよっぽど長い。恋の寿命は3年。
 私の恋の寿命は、あと一年と少しだけ。
 それだけ私は過ぎれば高校を卒業し、今のところなんの展望もない将来へとシフトする。その時まで私の生命としての寿命が尽きていないかどうかはさすがに考えつかないが、きっとこの恋は死んでいる。そう自分で決めた。一年ちょっとで18歳。未成年とはいえ、子供ではいられなくなってくる。
 綾小路警部は優しい。親切で、子供好きだ。私が彼と事件現場の周りをうろちょろすることを許されているのは、単に甘やかされているからだ。そこを勘違いするほど馬鹿じゃないし、自惚れるほどアホでもない。私が子供じゃなくなったら、この関係は消えてしまう。子供のままじゃ相手にしてもらえないのに、大人になったら今のように慈しみを持って扱ってもらえない。それがすごく悲しくて、でも誇らしくもあった。
 綾小路警部は私のような未成年に手を出すほど分別のない大人ではない。世に蔓延る一部の獣とは違う。きちんとした、人として尊敬できるおとなの男の人だ。だから好きになって、好きでい続けていて、失恋する覚悟がある。綾小路警部がそんな人でなかったら私はきっと好きにならなかっただろう。お互いの将来のことを考えて、報われぬまま恋心の寿命を見届ける覚悟を持つことも。
 あの人は大人の男の人で、将来を嘱望される未来の幹部候補で、公家出身の立派なお家柄。私のような女子高生を相手にする暇があるのならば、きちんとした大人の女性との結婚を望まれるだろう。お家の事情もあるだろうし、警察という組織で上を目指すという実情もある。私は綾小路警部の人生にとって邪魔なのだ。そこまでわかっていて周囲を飛び回るのは些か短慮だと言われるかもしれないが、だって“私はまだ子供なのだ”。それくらいのワガママは、どうやら許されているらしい。

「私を失恋させるんだから、警部にはうんと幸せになってもらわなきゃね」

 同意を求められたことがわかっているんだかわかっていないんだか、フードの中でシマリスはくるりと小さな肢体を揺らした。
 


「───はん、はん!」
「ふぁっ……!? 寝てません! 寝てませんよ!?」

 さながら授業中居眠りが見つかった生徒(経験談)のようにガバッと勢いよく起き上がれば、目に飛び込む強い光。すっかり闇になれた寝起きの瞳に白熱灯が厳しい。ちかちかする目を擦れば綾小路警部ともう1人の職員さんは呆れたような複雑そうな顔をしていた。

「堪忍なぁ、まだ居るとは思わんで」
「いえいえ……いえ……」

 己の過失を恥じて申し訳なさそうにぺこぺこする職員さんに、まだ寝ぼけている頭でぺこぺこ返す。いつのまにやら警部の肩に戻ったシマリス先輩がよく分かっていなさそうにひょいひょい顔を動かしていた。

「あれ……今何時……」
「9時や。遅うなって堪忍な……。戻ってきたらフロアは暗なっとるし、鍵閉まってはるし……怖かったやろ?」

 いえ全然。ていうか寝てましたし。と言うにはあまりにも慮った顔をされたので、私は少し狼狽する。恐縮したままの職員さんに「もうここはええです」と告げると、彼はさっさとどこかへ行ってしまった。綾小路警部はやたらと怒ったりする人ではないけれど、彼はそんなことは知らない。ただ偉い人の逆鱗に触れないように早々と退散したのだろう。
 この人の逆鱗、というとシマリスさんか。

「シマリス先輩もずっと眠ってたので、大丈夫ですよ。オールオッケーです!」

 シマリスは昼行性。暗いところでは大変おとなしいのだ。体感的には2人(……ひとりと1匹?)でただぐっすりと居眠りをしていただけである。

はんは?」
「私もほぼ眠ってただけなので」
「……さよか」
「警察署なんですから、滅多なことなんてありませんよ」

 警部のシマリスは京都府警察では目立つし有名ですし。肩に乗せて連れ歩いていると一課外の人が「ほらあれが噂の…」なんて注目する程のホットトピック。一課ではもう居て当然な存在なのでそんなことはないけどね。
 ホーッと息を吐いた警部を安心させるように告げれば、彼は何やら複雑そうな顔をして、ぽんぽんと私の頭を撫でた。少し腰を折って、静かな瞳が子供を諭すような色で私をのぞき込む。

「警察署やからって、変なやつがおらんとも限らへんのです」

 んん? ニュアンスを掴み損ねてじっと目を見つめる。綾小路警部の、性格の割に強い目つきがうろうろさ迷った。好きな人の顔はいつだって見つめたい私は、そんな彼を一頻り観察して従順に次を待つ。

はんはここでええって言ってくれはるけど、こんな隅っこで、人気も無い声も届かへんところに女子はん1人置いてけるわけがあらしません」
「は、はあ……。え? それって心配してくれたってことですか? わ……わたし、を? けーぶが……?」
「……当たり前やろ。ずっと心配しとります」

 さ、送ったるから今日はもう帰りますえ。すっくと立ち上がって帰り支度を始める彼を、胸の高鳴りが抑えきれないままの私はぽかんと見つめている。赤くなってしまった頬をなんとか冷やそうとして、あきらめた。ただ、心臓から絞り出してしまいそうな“好き”の二文字を今日だけは押しとどめて、まだついたままだった腕時計のライトを消した。

 私の恋の寿命はあと一年と少しだけ。

 けれど会う度に惚れ直してしまっていたら、恋の消費期限はいったいいつになってしまうのか。そんなこと私はまったく考えつきもしないまま、ただひたすらに好きで、ただひたすらに幸せだった。