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 あっけない事件と言える。事実婚の夫婦、お金のトラブル。殺害。アリバイさえ崩してしまえば動機は明白、トリックも凡庸。もしかしたら安楽椅子に座っていても出来たかもしれない推理だった。

「お疲れ様です」

「お疲れ様、ちゃん。助かったよ」
さん、帰りはバス? 送ろうか?」
「いやいや、いつも通り警部に送ってもらうんだろう?」

「はい、車で待ちます」

 顔見知りの警察官の方々に挨拶をして、ざわめく空間をすり抜ける。たくさんの人がいて、みんなそれぞれ自分の仕事をしている。私にはもうやることがないので、ここに居ても邪魔なだけだ。警部の姿を探して、車のキーを借りよう。大人しく彼の車で待っているのが一番だ。
 近くにいた鑑識の人に挨拶をして、それから建物を出る。小さなアパートの一室だけでは足りず、実況見分する人たちは廊下にまで零れていた。暗い道路に赤々とパトカーのランプが点滅する。近所の人たちがちらほらと、黄色いテープの外から物珍しそうに現場を注視していた。
 容疑者を乗せた車はとっくの昔に出てしまったらしい。そうでなければ、野次馬がこれだけで済むはずがない。人間の好奇心の厄介さは探偵が一番わかるのだ。それに人並み以上に振り回される難儀な質の者でなければやっていけない。
 詮索好きでお節介、想像力豊かで好奇心の塊。無粋で失礼で、身勝手で落ち着きがなく、他人の気持ちがわからない。探偵というものは得てしてそういうものだ。かの有名なシャーロック・ホームズだってそういう性質の男である。探偵小説に燦然と輝くヒロインであるコーデリア・グレイだって私情で殺人の隠蔽をする。大抵の場合私たちは警察ではないのだから、己のエゴで真実を秘匿することだってあるのだ。そんな、身勝手で己のことしか考えないエゴイスティックな人たち。
 そう。少なくとも私はそうだ。決して正義の味方ではないし、平等の守り手でもない。身勝手な人でなし。

 どん、と。何かが背中にぶつかった。子供がドッジボールを投げたくらいの衝撃だ。勢いはあっても痛さはない。振り向けば私の腰にしがみつくように男の子が立っていた。8歳くらいの小柄な子。何を隠そう、被害者の子供であり、加害者の事実上の子供である。

「君は……」
「お姉ちゃんのバカ!!」

 名前はなんだっただろうか。けんた、健太郎? 10人中9人は利発そうと形容しそうな、面差しのしっかりした子供だ。あとの1人が言う。「大人を舐めたような目をする子だ」。私も同じタイプの子供だったからよくわかる。
 キンキンと子供特有の高い声での罵倒に、衆目は一気に私に集まる。私と、小さな男の子に。あの女子高生が子供をいじめているのかという怪訝そうな瞳が刺すように私を射抜いた。もう随分減ったけれど、好奇心の強い野次馬はいつまでもそこに居るのだ。愉快な見世物なんかどこにもないのに。

「おじさんを返せ!!」

 賢そうな瞳が強く私を睨む。瞳の奥にあるのは確かに憤怒だ。憤り、怒り、深い不安に駆られた彼はそれを発散する先を求めている。

「おじさんをかえせよぉ! おっ…おかっ……おかあさんも死んじゃって……おじさんまでいなくなって! お、お姉ちゃんがおじさんを捕まえるからっ!!」

 同情めいたため息が周囲から漏れる。男の子はぽかぽかと両腕をやたらに打ち付けて私の背中にやつ当たる。地味に痛い。話しているうちにぼろぼろと瞳から涙が溢れ出た。あっという間に頭に血が上り酸素不足になった彼は嗚咽を混じらせながら慟哭する。
 反面、彼がヒートアップする度に頭が冷えていく私は思い出す。被虐待児を保護しようとしても、児童本人の意思のせいでままならないことがあるらしいと。人を殺すような親でも、彼にとっては確かに保護者だったのだ。

「かえせよぉ! おかあさんとおじさんを、かえせえ!」

 子供は苦手。事の顛末がなんであれ、泣かれてしまっては始末に負えない。言葉も論理も通じない。ここまで感情的になれることを羨ましいとすら思う。もう少し大きくなれば彼だって理性で感情をセーブできるかもしれないか、理性で感情をコントロールするのは何歳になっても難しいものだ。今だって私は己の身の上を嘆く少年にイマイチ心が動かない。なんと声をかけるのが正解なのだろう。キミはこれから親戚の家だか施設だかに引き取られて、職員室では知らぬ間に情報が駆け巡り、ある人には殺人犯の子だと噂され、あるいは被害者の子供だと同情され、インターネットで親の名前を調べれば事件の記事に行き当たり、自分には責任のないタイプの罪を一生背負わされ続けるのだと。そんな真実を突きつける? さすがの私だってそれが間違いだとはわかる。そう、彼にはなんの罪もないのだから。

「……そうだね。……ごめんね」

 そう言ってつんつんとした黒い髪をくしゃりとなでる。少年はわっと縋り付くように泣き崩れた。


 夜道にパッとハイビームが差して目を細める。眩しい。霞む視界に入ったのはよく見知った車だ。逆光で運転手の姿はみえないが、誰が乗っているのかは見えなくても知っている。私が一人で先に帰ってしまったので、心配して追いかけてきてくれたのだ。

「綾小路警部」
「夜道を一人で帰るのは危ないと言うたはずどす、はんはせっかちですな」

 わざわざ降りてドアを開けるので、私は乗り込むしかない。車内はよく知った匂いがした。大人の男の人がつける香水の香りだ。警部がそばに居るとふとした瞬間にこの匂いがして、ひどく心が安らぐ。酷いまでに、安らぐ。

「夜道を歩きたい気分だったんです」
「やとしたらもっと違うた日に明るいところを通っておくれやす。心配するやろ」
「ええ、次からはそうします」

 らしからぬ素直で従順で優等生な返事に少し眉を顰めて、警部は車のギアを入れた。滑るように走り出した高級車は私を乗せて薄暗い住宅地をゆっくり進む。ちょろちょろとすばしっこいシマリスが私の膝に乗るので、そっと胸ポケットに入れてやると、手のひらに乗るほど小さい生命は落ち着いたように体を丸めた。小動物特有の早い鼓動が伝わってくる。急ブレーキを踏んではこの可愛い友達を大変な目に合わせてしまうので、警部の運転はいつもスマートで安全だ。

「何か食べて帰りはる?」
「ううん、お腹空いてないや。今度なにか奢ってくださいな」
「珍しいですなぁ、はんがお腹空いてないなんて」
「私にだってそんな時はありますよ」

 もー、と子供らしく怒ってみれば、「堪忍なぁ」とあしらうように低く軽く笑う。綾小路警部は優しいし、大人だ。触れられたくないことには触れないでいてくれるし、それでも心配で追いかけてきてくれる。どうしようもなくまだ大人になりきれない私は彼のそんなところが大好きで、同時に憎らしくもあった。彼に引かれた一線はたとえ私が大人になっても越えることが出来ない。
 いつも通りに車は我が家の近くに。私は自分でパタンとドアを開いて、街灯に照らされた夜道に躍り出る。ちょろりとポケットからシマリスがまろび出て、警部の肩に収まった。

「ありがとうございます、じゃあまた」
はん」

 呼び止められて振り返る。少し腰をかがめて車の中を伺えば、警部はシートべルトの可動域ぎりぎりまで体を伸ばした。座っているので、いつもとは視線の立場が逆だ。私が彼を見下ろすと、見上げる彼は大きな手のひらを少し躊躇わせてからそっと私の頭に触れた。

「また世話になってしもうたわ。おおきに、はん」

 なれない手つきで、ぽん、ぽんと大きな手のひらがゆるく頭に触れた。私はされるがまま、更に頭を垂れる。
 ほんとうに、不器用な人だ。

はんは、ほんまにええ子やわ」
「警部にそんな事言われると、照れますなぁー」

 にやにやとはにかんでしまう口を抑えきれず、馬鹿みたいに笑ってごまかす。名残惜しいのを振り切って立ち上がり、ひらひらと明るく手を振った。

「また今度デートしましょうね!」