銀の糸は紡がれて

ジリリリリ。同居人が毎朝欠かさずかけている目覚ましの音で私は一度目を覚ます。

「んん……」

寝ぼけた頭で身じろぎすると、隣に寝ていた同居人が起き出す気配がした。
布団の隙間に冷気が入り込んで寒い。

「さむ……」
「すみません。おはようございます」
「むー……るくくん、はよ……」

髪の毛をひと撫でされる感触を感じたが最後、私の意識は再び途切れた。

、起きてください。」
「ん゛〜……」

次に意識が浮上するのは同居人の手によってだ。やさしく肩を揺さぶられて、否応なしに起こされる。

「やー。」
「朝御飯ですよ」
「う〜……」
「ほら、はやく知性を取り戻してください」

ぬるま湯でしめらせたタオルで優しく顔を拭われて、仕方ないから身体を起こすと目の前には同居人――るくくん、と呼んでいる。フルネームは知らない――が微笑んでいた。

「はよー、るくくん」
「はい、おはようございます。コーヒーでいいですか?カフェオレ?」
「かふぇおれー」
「はいはい。用意しますから、着替えてくださいね」

朝食の気配にうきうきしながら、クローゼットから適当な服を選ぶ。ざっくりしたニットパーカーにシャツとパンツ。これが一番楽だ。
顔を洗って髪をとかして――寝癖は放っておこう――最低限体裁を整えて鼻唄混じりにリビングへと向かう。

リビングでは既にるくくんがテーブルについていて、新聞を読んでいた。
今日の朝食はクロワッサンとスクランブルエッグ、トマトと豆のサラダと昨夜の残りのジャガイモのスープ。あとカフェオレ。

「ふわー、いただきます」
「はい、どうぞ」

バターたっぷりでさくさくしたクロワッサンは私のお気に入りだ。食べるのが下手で生地がぽろぽろ溢れてしまうけど、気にしないことにしよう。あとでちゃんと拭くから。

「めっちゃおいしいー」
「よかったです。お昼は冷蔵庫にありますから、温めて食べてくださいね」
「るくくん今日遅くなるの?」
「いえ、夕方には帰ってくる予定です」
「そっかー」

夕方には帰ってくると言うことは、そのあと夕御飯を用意してくれると言うことだ。
帰りが遅くなる日は予め用意してくれているか、デリバリーのお金がおいてあるのが常だ。
たまに気まぐれてご飯を作ると喜んでくれるが、和食が口に合わないのではないかと私が勝手に懸念しているのであんまり作りたくない。

「ごちそうさま」
「洗い物、お願いしていいですか」
「おっけー!」

私が洗うと真っ白なマイセンを傷めそうで怖いが、今まで何度か洗ってきて文句を言われたことはないからきっと大丈夫なのだろう。
ヴィンテージパープルを基調にしたアイランド型のキッチンは、そこだけでも私が日本で住んでいた部屋より大きい。
主人は忙しくて掃除が行き届かないため、たまに清掃の人が入っている。広い家は維持するのも大変なのだ。
るくくん曰く、彼のお兄さんは逆に掃除好きで家の管理をするの大好きなタイプらしく、大きい家だけどなにからなにまで自分でピカピカにしているらしい。特にキッチンは念入りで、キッチンを汚さないために外食で済ませるらしい。それはもうなんというか、一本筋が通っている。

「食器用の洗剤がなくなりそうなの」
「お金を置いときますから、買ってきてもらえますか?」
「…………」
「……行かなくてもいいですよ、一応置いておきますから。お釣りは好きにしてください」

お駄賃込みとか子供のおつかいかよ!と思うけど、わかりやすい感覚で言うと彼はティッシュ一箱買うのに一万円渡してくるタイプだ。鼻セレブどころか羽衣を買ったとしても、余った6割以上はお小遣い。どれだけがめつい子供でもドン引きだろう。
ただ、浪費家なのかと思って観察しているとそういうわけでもないらしい。IKEAやユニクロも上手に取り入れるタイプだ。ある意味一番いけすかない。
つまりは私は彼に最大限に甘やかされているわけだが、それでもおつかいは行きたくない。だって外嫌いだし。Amazonがあるからいいじゃん、るくくんプライム会員だから今日中に手に入るよ。

「では、Amazonで注文しておいてください」
「それくらいならお安いご用だよ!」

るくくんは呆れたような困ったものを見るような顔で微笑んだ。
彼がどんな仕事をしているかはしらない。毎日スーツを着て出掛けていくからホワイトカラーの定職には就いているのだろう。彼は最低限しか仕事の話をしないし、私も聞かない。
この人裕福だなぁと思う度、こわい仕事をしていたらどうしようと脳裏にちらつくが、そうであったところで今更どうしようもないのだ。あ、私この人に囲われてるのかな、と本格的に自覚するだけの話である。一応今の認識はめちゃくちゃ甘やかされてる友人だし、彼に聞いても「は自分の友達ですよ」と言うだけだ。
毎晩同じベッドで寝るけど抱き締めるだけでなにもしてこない。かといって彼に他の女の影はない。それどころか彼の人間関係は兄と姉くらいしかわからない。

私の勝手な想像では彼は名家の生まれで、実はゲイで彼氏がいるけど家の方針的にそれが許されないから、私と言う存在を盾に裏で彼氏とよろしくしてるんじゃないかな。
つまりは偽装結婚?的な?あれ、結婚してないや。まぁそういう感じだと思ってる。彼がお金持ちなとことか私に健康で文化的で最低限度どころじゃない生活をさせてくれるとことか、でも女としてのなにかを求めてこないこととかを考えると、これが一番辻褄あう気がする。
だって付き合ってないとはいえ毎晩隣で女が寝ているのに、なにもしてこないなんて人間業じゃない。

「では。行ってきますね。」
「はーい」

ペルツェと一緒に玄関まで見送ると、彼は嬉しそうに笑って「お土産を買ってきますね」と言った。ロールケーキがいいなぁ。


ひょんなことから生き物を拾った。生き物というか、具体的には人で、若い娘だ。
はぼんやりとしてて変わった女の子で、でも優しくて臆病でなにより警戒心が薄かった。
誓って見下しているつもりはないが、どうにも庇護欲を掻き立てられる。絶滅危惧種みたいな女だ。
拾った理由はそう、多分一目惚れというものなんだろう。脆そうだと思った、だから気付いたら傍に置いていた。

朝、目覚ましで起きると、釣られて起きたは「寒い」なんていいながら寝ぼけた頭を自分にすり寄せてくる。まだ寒い日が続くから、ぬくもりが恋しいのだ。

「すみません。おはようございます」
「むー……るくくん、はよ……」

るくくん、なんていう風に自分を呼ぶ女性は彼女だけだ。兄弟間の愛称ですらルクセンだと思うと、最大限に略された名前はまるで人間の名前みたいでむずむずする。“君”という響きも新鮮だ。

着替えて身支度を済ませ、キッチンで朝食を用意する。ついでに彼女の昼食も用意してしまおう。は他人との所有の壁が薄いように見えて、彼女のなかには明確にラインがあるらしい。食べて良いだとか好きにしていいと言っておかないと冷蔵庫の中身に手を出さない。
待てをされてる犬みたいだと失礼なことを思ってしまうが、たんに遠慮をしているんだろう。

昨夜のスープを温め直して、ひよこ豆のサラダを作る。あとは、スクランブルエッグに買っておいたパン。この店のクロワッサンはのお気に入りだ。食べるのがやたら下手なのが難点だが。
あとはコーヒーを入れるだけにしてしまって、ぬるま湯で絞ったタオルを用意して再び寝室へ向かう。そろそろ起きてくれればいいが。

、起きてください。」
「ん゛〜……」

肩を揺さぶってやると珍妙な声で鳴いた。むずかる子供みたいに目を擦る。可愛い人だ。

「やー。」
「朝御飯ですよ」
「う〜……」
「ほら、はやく知性を取り戻してください」

なるべく優しく、ぬるま湯で濡らしたタオルで顔を拭ってやると、さすがに観念したらしく、のっそりと起き上がる。

「はよー、るくくん」
「はい、おはようございます。コーヒーでいいですか?カフェオレ?」
「かふぇおれー」
「はいはい。用意しますから、着替えてくださいね」

カフェオレを用意していると、間延びした鼻唄を歌いながらがやってくる。
首元の延びたTシャツとタオル生地のハーフパンツ、大きめのニットパーカー。寝巻きから部屋着に変わっただけだ。寝癖で割れた前髪を手でいじくっている。気になるなら直してからくればいいのに。

「ふわー、いただきます」
「はい、どうぞ」

がうれしそうにクロワッサンにかぶりつく。
この店のパンは彼女の大好物だ。なかでもクロワッサンとアップルパイとスモークチーズとくるみのパンは不動の地位を築いている。

「めっちゃおいしいー」
「よかったです。お昼は冷蔵庫にありますから、温めて食べてくださいね」

そう言うとは律儀にパンくずを集めていた手を止める。
アーモンド型の瞳がうかがうように見上げてくる

「るくくん今日遅くなるの?」
「いえ、夕方には帰ってくる予定です」
「そっかー」

きっと夕食の心配をしたのだろう。夕食時に帰れるときは自分が用意して、無理ならあらかじめなにかしらを用意をするのが常である。
たまに気まぐれを起こして作ってくれるのがなかなかのサプライズだ。味は普通。和食の家庭料理と言うものをあまり知らないから、所謂あれが日本の家庭料理なんだなぁとぼんやり思う程度だ。

「ごちそうさま」
「洗い物、お願いしていいですか」

元気よく諾の返事を返した彼女は、キッチンに立つ。
その立ち振舞いは奥さんという程艶があるわけでも女中というほど洗練されているわけでもない。強いて言えば、自分がもし人間で、そのうえ妹という存在がいたならあれくらいの容姿であれくらいの立ち振舞いなのだろうと思う。

「食器用の洗剤がなくなりそうなの」
「お金を置いときますから、買ってきてもらえますか?」

簡単なお願いに、彼女はふいにぴたりと動きを止める。瞳の奥にふっと翳りが見えた。

「……行かなくてもいいですよ、一応置いておきますから。お釣りは好きにしてください」

なにかと入り用なこともあるだろうと彼女にお金を渡すこともあるが、大抵の場合遠慮して受け取らない。健常な自尊心がそれを許さないのかもしれない。だからこういうときについでに渡すようにしているのだ。それが日用品などのこまごまとした物事以外にはほとんど使われず、彼女の部屋の引き出しにしまわれていることも知っている。

漸く感情が追い付いたらしい、フリーズを解いた彼女は唇を尖らせて“Amazonで頼めばいいじゃん”なんていう。そんな彼女に苦笑してそれでも構わないと告げると、一転して嬉しそうな顔をして引き受けた。相変わらずの外嫌いらしい。エンカウント率が低いから、彼女を拾えたのはかなりレアな事態だ。

彼女がどこから来たかはしらないし、正直言うとどこで拾ったかもあまり覚えていない。特殊な体質だから、越境レベルに遠くても近所のように近くに感じるし、案外散歩中にふらっとオランダくんだりまで行ってしまっていて、そこで出会ったのかもしれない。自分という国は彼女にとってとてもマイナーで、出不精な彼女がわざわざ旅行に来たりなんかしないだろうし。

はじめて泊めた日、シャワーを浴びてあたたまった彼女はふらふらと自分の隣に座った。そのまま糸が切れたように寝入ってしまって、その日は二人してソファで眠りこけたのだ。
それ以来なぜか一緒に寝る習慣がついてしまって、今日だって彼女を腕に抱いて目覚めた。
もしかしたら、これはもう恋人同士なのかもしれないし、違うかもしれない。二人の関係を問われたら、友人であるとしか答えられない。義兄姉はそれでも勘ぐって恋人だと思っているみたいだが。当たり前だ、ただのルームシェアにしては彼女は自分に近すぎるし、自分も彼女を甘やかしすぎている。
キスのひとつでもして彼女の心を確かめてみたいが、そんなことをしたら彼女が出ていってしまう気がして出来ないでいる。

自分が彼女を好きかどうか聞かれたら、これは明確な答えを出せる。好きだ。抱いてと言われたら抱けるし、キスをねだられたら応えるだろう。どうにも危なっかしい、決して美人でもない、そのうえちょっとだけ頭の弱そうな彼女に、自分は激しく一目惚れをしたのだ。そしてそのまま連れてきてしまった。彼女が抵抗しないのをいいことに。まるで子供が、楽しいものを見せたいと母親の手を引くように。

「では。行ってきますね。」
「はーい」

革靴を履いて玄関を振り返ると、はペルツェを連れて手を振っていた。思わず破顔してしまう。どうにかにやける顔を抑えて、名残惜しいが扉をあける。
今日は甘いものでも買って帰ろう。きっといつものように帰宅を迎えてくれる彼女に、まっさきにパティスリーの箱を渡したい。