僕の妹と氷上の帝王





僕は砂浜を歩いている。
空は曇っていて、その隙間から差す微かな光が海風に煽られる波を照らしていた。砂に足を取られながら前を走っていた妹が盛大に転んで膝を擦りむいたので、僕は慌てて駆け寄った。
身体を起こした妹の周りを愛犬が心配そうにウロウロと歩き回り、砂浜に肉球の足跡がいくつもいくつも出来上がる。
「ほら……そんなに走ったら転ぶって兄ちゃん言ったでしょ」
年の離れた妹はまだ7歲で、中学生の僕からしたら随分と小さくて訳の分からない存在だった。母や姉のように包容力を持って接することは出来ないし、父のように穏やかに見守ることも出来ない。その言うことを聞かない小さい存在にイライラしてしまうこともままあった。
はよほど痛かったらしく、砂浜に膝を抱えて瞳には涙の膜ができている。大声で泣きわめかなかったことに僕は感心した。7歲なりにプライドがあるのだろう。人の心の機微に敏感なヴィっちゃんに気を使わせまいとしたのかもしれない。
震える唇が僕を呼ぶ。
────お兄ちゃん。
ちっさい身体を抱えあげてポンポンと背中を叩いてやれば、は“うう”と小さく嗚咽を漏らし、そのままぎゅうと僕の首に抱きついた。
「ほら、痛かったなー」
傷口に砂が入ってしまったので、あっちの水場で膝を洗ってあげなければ。そうしたら家に帰ろう。今日の散歩はもうおしまいだ。ちっさくて軽いとはいえ、家まで7歲児を抱えて歩くのはめんどくさいなぁ。
水道の方に行こう、と言おうとした僕の唇はしかしまったく違うことを呟いた。
、もし兄ちゃんがスケートやめたらどうする?」
泣いていたはずの7歳のはそれに驚きもせず、ぽつりと言葉を返した。
────むしろお兄ちゃん、スケートやめてどうするの?
「どうって……家業か、就活…」
────スケートに人生かけてたのに?
「……それは……まぁ…」
そう、僕は人生の殆どをスケートと共に生きてきた。この九州の片田舎で。人は人生を変えたものに憧れるというが、僕の人生はまさしくヴィクトルとスケートによって変わり続けていたはずだ。それを捨てて生きることは、想像すらしていない。
────お兄ちゃん、日本のトップスケーターなんじゃないの?なかなかないよね、人生で日本のトップクラスに立つのって。
ずしり、と7歲の妹を重く感じる。抱き上げてて顔が見えないから、まるで子泣きじじいを抱いたみたいだ。中学生の僕はまだ日本のトップスケーターなんかじゃない。“中学生の僕”は。
────この先さ、お兄ちゃんがスケートやめたら、勝ったり負けたりそういう人生のドラマ、全部無くなるんじゃないかな?アスリートの感動とかって、普通の人にはまず無いからね?
「ま、待って…」
────ファイナルグランプリでボロ負けした記憶を引きずって一生それ以上の感動とか無く終わる人生、お兄ちゃん耐えられるの?
「待っ……」
妹の言葉も身体もどんどんと重くなる。腰から下がもう砂浜に埋まって身動きが取れない。周囲を見回したらヴィっちゃんも居ない。慌てて視線を戻せば妹だと思っていたものが漬物石に変わっていて、僕は、僕は、ぼくは────


「ううーん……ぼ、ぼくはぁ……」

「ねー、お兄ちゃん。起きてってば…」
学校に行く前にお兄ちゃん起こして来て、なんてお母さんに頼まれて部屋に来たけれど、お兄ちゃんは一向に起きない。それどころか寝ぼけてムニャムニャ寝言を言う始末だ。ゆさゆさ身体を揺さぶったり肩を軽く叩いたりしてみても、魘されるばかりである。小さい頃は上に乗ったり布団を引っぺがしたりして起こしていた気がするけど、久しぶりに会ったばかりのお兄ちゃんにそうする気にはなれなかった。
「お兄ちゃん、私そろそろ学校行くからね」
どうせお兄ちゃんは用事があるわけでもないだろう、もう見捨てて学校に行ってしまおう。しかし彼は立ち上がりかけた私の腕を掴んだ。起きたのかと思ったけど、瞳はしっかり閉じられている。
「ううー、……兄ちゃん頑張るから……」
「お兄ちゃん…?」
一体何を言っているのかよくわからなかったけど、寝癖でいつもよりくしゃくしゃの頭を撫でてあげたらその手はふっと力を抜いた。そういえばお兄ちゃん、昔は私と話す時だけ自分のこと“兄ちゃん”なんて呼んでたなぁ。
もう少しお兄ちゃんの見事なうなされっぷりを見ていたかったけど、そろそろ家を出なければ。夜更けから降り出した季節はずれの雪が積もっていて、今日は桜と雪のコラボレーションだ。通学しなければいけない身からしたら寒くてたまらないけれど。
「お兄ちゃん、行ってきます」
眠るお兄ちゃんは当然返事なんてしない。


正真正銘の悪夢から目覚めたら、ヴィクトルが僕のコーチをやるなんて言い出すからまだ夢の続きなのかと思ったくらいだ。しかし、うちの館内着を着て座敷でぐーすか眠りこけるヴィクトルは確かにそこに存在した。
手を伸ばしたら触れられる距離で、リビングレジェンドが存在している。悪夢というよりもはや悪い冗談みたいだ。ネットニュースを見てミナコ先生が駆け込んできたけれど、僕だってまだ現実が飲み込めない。
「……hungry…」
むっくりと起き上がったヴィクトルがそういうので(さっきご飯食べてから寝たのに!?)、母さんに何か作ってくれるよう頼むと「どうせもそろそろ帰ってくるけんね」と二つ返事でOKしてくれた。
今日も部活が遅いのか、はまだ帰ってきてなかった。そういえば結局何部なんだっけ。
「ただーいまー」
噂をすればなんとやら、裏口からやっと聞き慣れてきた女の子の声がする。少し甘ったれた間延びした口調。軽い足跡がぱたぱた廊下を上滑りして座敷の障子が開く。
「あーさむかった……あ、れ?」
「あら
降る雪にすっかり凍えて一目散に暖かい座敷へとやってきたは、その光景を見てぽかんと口を開いた。そんなに声をかけてあげられたのはミナコ先生だけである。ヴィクトルは新顔をなにやらきょとんと見つめていて、僕はといえばそんな彼らの様子を見るのに必死だから。
しかし困惑した顔のは、ほかの誰でもなく僕に助けを求めた。
「お兄ちゃん……おきゃく、様…?」
「あー…えっと…」
ただの外国人客であればもここまで驚くまい、きっと知りたいのは“何故ここにヴィクトル・ニキフォロフが?”ということだろう。引きつった顔の妹になんと声をかけるべきか。しかし僕だって現実を受け止めきれてないのに説明だなんて。
「Amazing!!!Japanese school girl!!」
「わぁ!?」
ヴィクトルがパアッと表情を明るくして大声をあげたものだから、はもちろん僕まで驚いた。ヴィクトルは立ち上がり、びくりと身体を硬直させたに大きく両腕を広げてその体を包み込む。
「ぎゃあ!?」
「キミはここの子かい?誰?ユーリの家族?名前は何ていうの?ああ、随分身体が冷えてるじゃないか」
まくし立てられたヴィクトルの質問攻めはすべて英語だった。当然アメリカ英語やイギリス英語はもちろん、ロシア訛の英語なんて理解出来ないは目を白黒させて抱擁を受けている。
「待っ、待っ!!ヴィクトル!stop!!」
ヴィクトル・ニキフォロフのハグなんて、田舎の普通の女子高生に耐えきれるわけがない。ドクターストップと言わんばかりに彼を引きはがすと、はカッと逆上せたみたいに顔を赤くさせてへなへなと座り込んだ。
「この子は僕の妹です!やめてあげてっ!」
「cute girl!ユーリ、随分可愛い妹が居たんだね!」
goodだのniceだのAmazingだの言う目の前の外国人は、のキャパシティを完全に超えてしまったらしい。ミナコ先生に宥められながら目を回すがぽつりと呟いたのを僕はしばらく忘れられなかった。
「も、モノマネ面白外国人…?」
いいえ、御本人様の登場です。