あなたと私と、醒めない




おひとりさまで適当な店で1杯引っ掛けたあとの夜道は虚しい。飲み屋以外の店はもうとっくに閉まっていて、住宅街へと続く道は暗くて静か。家々の明かりもまばらで、寒さを際立たせるためにあるような青白い街灯だけがアスファルトを照らしていた。
飲み足りないし、お酒とおつまみでも買って帰ろうかと唯一明明と電気を灯したコンビニへと入っていくのも仕方ないことだろう。人も虫も明るい方に寄っていくのだ。
店内に入ると、春先だというのに冬の名残のおでんがふわりと匂った。肉まんは売り切れてしまったらしく、空になったホットケースがレジ横に鎮座している。あれば買おうと思ってたのに残念。
カゴをひっつかんで店内をうろつき、お酒とスナックを突っ込む。ついでにおでんも買ってしまおうか。借りてた映画のDVDもあるし、それ観ながらだらだら食べてだらだら飲もう。どうせ明日はお休みだ。
なんの具が残っているかケースごしに覗き込んでいると、店のドアが開く音がして反射的に顔を上げる。
!」
「ヴィクトルさんっ?」
入ってきたのはヴィクトル・ニキフォロフその人であった。飲んだ帰りなのか寒いからなのか、白い頬は赤く染まっている。夜だというのに大きく腕をふって私に笑いかける様は夏休みの子供みたいに快活だ。
「どうしたんですか?」
こそ、こんな時間にひとりで危ないぞ」
「ちょっと飲んでて…」
そう言うと彼は「オレもだよ」と言って目を細めた。
「飲み足りないからほかの店探してたら、がここに入ってくのが見えて」
「わたしも飲み足りなくて、家で飲もうかと」
「ふーん、じゃあ、行こうか!」
行っていい?とか行きたいな、とかそういうのも無いんですね、ヴィクトルさんは。勇利も結構頑固だしユリオくんも我が強かったけど、ヴィクトルさんはこのレベルでこのスタイルで人の話し聞かないんだな、よーし、頑張れ私。は深く覚悟した。
断るという選択肢は、最初から彼女の中にはなかった。


ヴィクトルがの部屋に入るのは2度目だ。1度目はユーリについて聞くため、2度目の今はお酒を飲むため。
顔見知りとはいえ、ほいほい男を家に入れてしまう彼女もどうかと思ったが、そもそもそこの警戒心があれば自分と彼女の距離はもっと遠いままだったのだろう。
ともあれ、小さな酒宴は最初は大人しく始まった。それから映画を観ながら穏やかに。やがてヴィクトルに酒が回る頃にはは前後不覚となっていた。それもそのはず、ヴィクトルのペースにかなり乱されて慣れない深酒をしたからだ。
「ううー…」
「大丈夫?」
ふらふら不安定に揺れる頭は見ているほうが不安になる。背中をさすってやると拠り所を見つけたように頭がヴィクトルの肩にもたれた。
「もう休むといいよ」
「えいが…」
「もう終わったよ」
気分を出そうという彼女の提案(シネマ気分であってロマンチックな気分ではないことを、ヴィクトルは少し落胆した)に乗り、照明を落として薄暗くした部屋は、真っ黒い画面から落とされるエンドロールの薄明かりに照らされていた。古いイギリス映画で、貴族の男女の悲恋ものだった。
エンドロールすら消え、画面がメニューに戻ったのを合図にするかのように、うんうん唸る頭はずりずりとヴィクトルにもたれた。片手に握っていたグラスを置いて支えると、彼女の身体は自力で支えられないのが不思議なくらいに軽かった。酒で腫れぼったくなった瞼で、瞳はほとんど閉じられている。
「さーて、お休みの時間だぞー」
彼女をベッドで寝かしつけて、鍵を借りて部屋を出ることにしよう。きちんと施錠して鍵はポストにでもいれておいてあげる。それが人として男として出来る最良の行動だ。
ヴィクトルとて酔ってはいたが、まだ身体の軸はぶれていない。ぐんにゃりとした猫みたいな身体を抱えあげてベッドへと運んでやる間、彼女はなんとか意識を保とうとずっと眉を顰めて唸っていた。
「ほらほら、寝ればよくなるさ」
「ぅん…」
「……?」
ベッドに下ろして身体を離そうとしたところで、彼女の腕が肩へと回っていることに気づいた。酒で筋肉が弛緩しているというのに案外強い力で。
「放してくれないと、帰れない」
「んん…」
むずがる子供みたいに眉をひそめて、は腕を離したがらない。かっちりと両指を絡めてロックしているようだった。その腕をそっと掴んで解錠するよう促しても、彼女はいやいやと首を振る。
「放さないと、襲っちゃうぞー?」
そう言えば嫌がって離れていくだろうと思ったけれど、しかしぐらぐらした首はぴたりと止まった。アーモンドみたいな瞳が薄く開いて、涙の膜が揺らぐ。その瞳はたしかに己を見つめていた。
女はきゅうと唇を引き結んで、それから赤い舌がちろりとそれを湿らせた。緩んだ口元からちらりと歯が覗く。
「んっ……!」
綻んだばかりの薔薇のようだ、と思った瞬間にはそれを塞いでいた。
少しかかさついて、酒の味がした。何の障害もないそこに舌を忍ばせて、誘うような歯列をなぞる。ちゅ、と唾液が擦れる音がした。
「は、ふ……」
「ん……」
首に回されていた腕はいつの間にか力尽きて、必死に服の背中を掴んでいた。ヴィクトルはアンコールに応えるみたいに一層口付けを深くする。ひくりとした血潮を感じさせる下唇をやわく食んで、角度を変えてもう1度。
ぐったりとベッドに倒れ込みそうになる背中を支えて、穴蔵に潜むタコみたいに縮こまった舌を掻き出す。
「は…。……っ…!」
「ぁっ…」
テレビの明かりに照らされた薄闇の中で、普段は熱を感じさせるバター色の肌が青白く生々しかった。しっとりとした首筋に舌を這わせると、は小さく甘く鳴いた。我慢出来ずに犬みたいにかぷりと歯を立てて、華奢な鎖骨に唇を落とす。
……っ……」
「はぁ、ぁっ……」
スキンを持っていただろうか、と不安が頭を掠める。
結果から言えば、財布に入っていたしその上出番はなかった。
シャツにかけた手をが掴んだからだ。
「……?」
「っひ……ぅ…」
「!?」
は、眉をへたりと下げて泣いていた。
───俺はまた彼女を泣かせたのか。
熱が燻っていた心がすっと冷静になっていく。己を客観視できれば、ヴィクトルの顔は音を立てそうなほど急速に青ざめただろう。合意の上なら言うまでもないが、そうでないのならとんだ悪手であったからだ。がばりと身体を起こして彼女から距離をとる。自慢じゃないが、女性に拒否されたのはこれが初めてだった。
「ご、ごめん!嫌だった!?」
しかしはぐしぐしと目を擦り、首を横に振った。ヒクリと喉がしゃくり上げる。その頭を撫でていいか、触れても許されるか迷っている間になんとか嗚咽を抑えて、小さな声が紡がれる。
「いや、じゃ、ないです」
「じゃあ、なんで……」
「だ、だって、これっ……」
そこでまたひっくと声が震えた。
涙でグシャグシャになった顔は赤く、ああこれは明日になれば酷くむくんで瞼が腫れてしまうのだろうなと思った。涙で濡れた黒いまつげがテレビの明かりに照らされて眩しそうだ。
「これっ、こ、恋人同士のっ…やつですか? そ、そうじゃなきゃっ、いや…です……!」
全身が心臓になったみたいにどくんと胸が打ち震えた。ひどく涙声で、日本語混じりの英語で必死に告げられたそれに、ヴィクトルは目を見開く。まるで熱い紅茶を飲んだみたいに胸が熱い。
だって、こんなにいじらしいことを告げられるだなんて。初めて他人に情熱を抱いたあの遠い日を思い出してヴィクトルはくらくらと目眩がした。もし人生がひとつの辞典なら、好きという項目には彼女が載るのだろう。
手順を間違えた、と痛感した。けれど痛恨のミスではなかったのだと思う。ごくりと喉が鳴って、最適な言葉を探した。人に泣かれるのは苦手だ。それが女の子ならば特に。けれど嗚咽をキスで塞ぐよりもずっとちょうどいい行動がある気がして、身体が動かせなかった。
……」
声が震えているのに自分でも驚いた。
彼女はまだひくつく喉で“びくとる”と舌足らずに男の名を呼ぶ。
彼女が先刻そうしたように、唇を舌で湿らせる。英語では嫌だと思った、けれどロシア語では彼女はわからないだろうし、日本語でなんといえば良いのかが思い出せない。
、俺は……」
気持ちを告げれば、感動でむせび泣いてくれるだろうか。それとも、予想外なことをする彼女だからひょっとすると嫌だというのかもしれない。それでもよかった。いま口にしないと、ヴィクトルの心はパンパンに空気を詰まった風船みたいに好きという気持ちを爆発させてしまうかもしれない。
考えうる限りの言語を使ってしまおうと口を開いたけれど、しかしはそれを遮るかのごとく口を尖らせた。
「うっ……」
「……う?」
「き、気持ち悪い……」
「気持ち悪い!?」
いつの間にか真っ青に青ざめていた彼女は、身体を丸めて口元を手で塞ぐ。辛そうに固く目を閉じて、険しい顔をしている。
「ま、待って……吐きそう!?」
「ぅっ…」
コクコクと必死で頭を振るので、ヴィクトルは慌ててビニール袋を探した。
「ふ、袋、いやトイレッ…!」
蹲る身体を抱え上げたけれど、間に合わなかった。
斯くして、ヴィクトルは彼女に深く触れるよりもベッドを共にするよりも、まず真っ先にシャワーを借りることになってしまった。