妻恋う鹿は笛に寄る

(ヴィクトル夢)
(過去の夢主→勇利な描写)




「小さくて可愛い部屋だね」
「適当に座ってください、日本茶でいいですか?」
「もちろんだとも!」

躊躇いもなく彼が小さなベッドに腰掛けるのを見届けて私は部屋をあとにした。
築年数ウン十年。ドアは開閉する度に軋むし、お風呂の電球も実は切れてる。冷蔵庫の中身はパンと卵とマヨネーズだけ、そんな私の家。
そんな私のわびしい家に、いまヴィクトルさんが来ている。
きっかけとしてはほんの些細かつ淡白なもので、勇利の昔の写真が見たいというのだ。卒業アルバムとか、小さい頃のエピソードとか。
たしかにその事に関しての適任は私くらいしかいないだろう。

────……いない、か?ゆ〜とぴあに滞在してるんだから真利さんやおばさま達に聞けばいいのでは?それにわたしはスケートをやっていないので、フィギュアスケートの話なら西郡ファミリーに聞けばいいのだし…いや、きっと多角的に知りたいんだろう。そうでなければわざわざ私の家にまで来る必要ないだろう。うんうん、そうだ、きっとそうなんだ。さすがはヴィクトルさんだ。
あまり遅くなるのも不自然なので、さっさとお茶を入れて買い置きの羊羹を切る。ヴィクトルさんは大抵の日本食文化には耐性があるみたいなのでこういうとき楽だ。旺盛な好奇心、それが彼をレジェンドたらしめるのかもしれない。ユリオくんなら絶対食べてくれない。

「おまたせし……わあ!?」
「なんだ、やっぱりオレのファンだったんじゃないか!」
「ち、ちがっ…くはないけど!それは勇利に貰って…!」
おぼん片手に部屋に戻ると、ベッドに座ったはずのヴィクトルさんは立ち上がり壁のコルクボードを見ていた。貰い物の絵葉書や旅行の写真なんかに紛れて、ヴィクトルさんのポストカードを貼ってある。まだ髪が長い頃のもので、たしか世界ジュニアの時のもの。あどけなさの残る顔に中性的な衣装も相まって、どこか人外の美しさすら感じる。
フィギュアスケートには詳しくない。でもニュースから聞こえる国内選手の名前以外では、ヴィクトルさんだけは特別聞き覚えがあった。だって勇利のあこがれだったから。だからこそ、私にとって彼だけが特別で、彼だけが世界が違うのだ。
そんな私の視点がお気に召さなかったらしく、先日彼に随分と大胆に注意されたけれど。でも勇利に指導するところを見ていると、きっとあれは彼の元々の性質なんだ。妙にセクシーで匂い立つようなエロスで、とても距離が近い。パーソナルスペースがほとんどゼロ。きっと勇利にアドバイスをするように、私とおしゃべりした。彼にとってはそれだけのことである、はずだ。
「これは、勇利がデトロイトからくれたの」
コルクボードから外して裏返す。エアメール特有のごちゃついた宛名面には、我が家の住所と勇利からの簡素なメッセージが添えられていた。あっちの風景だとかオシャレなポストカードとかではなく、ヴィクトルさんのポストカードにするあたり、勇利らしいと言える。
「へえ、よく貰ってたの?」
「うーん、あんまり…?年賀状だけは欠かさずくれたけど、そうじゃない時は私があんまり返信しないから…」
大抵は返信がわりに勝生家の仕送りに一言添えるくらいだ。わたしよりも、フレンドリーな勝生家の皆さんがさせたがるから。
わたしが自主的に書くのなんてニューイヤーカードくらいだった。
「もう何枚かありますよ」
しまい込んであった卒業アルバムに、勝生家との写真が載っている私の個人的なアルバム、それからまとめておいたポストカード類。それらを引っ張り出すと、ヴィクトルさんは目を輝かせていた。
は本当に勇利とずっと一緒だったんだね」
「ええ、まぁ」
ポストカードはヴィクトルさんのものが数枚と、デトロイトらしき町並みのものが2枚、あとはメリクリ&ニューイヤーということを全面にアピールしためでたそうなやつ。
「ワオ、この頃のオレってカワイイ系だね」
「ふふ、そうかもしれませんね」
「今はセクシーだけど」
「そ、うかも、ですね…」
自分で言うのが嫌味にならない男、ヴィクトル・ニキフォロフである。反論ができない。彼も別にこちらの反応はどうでもいいらしく、興味は卒業アルバムへとうつる。
「うわ、これどれだい?」
中学校は4クラス。少ないとはいえ、今とは雰囲気も違うしみんな同じような制服だ。クラス写真のページをぱたぱためくって私とユーリを探すのは至難だろう。
「どれでしょう!」
「うーん……ならすぐにわかるんだけど」
「えっ?」
「これだろ?」
そう言って彼は私のクラスの集合写真の、私が居る列の、私を指さした。中学の頃の私がぼんやりした顔で写っている。ちなみに勇利はその斜め後ろだった。
「ね?あたり?」
「せ、正解です…」
「ヤッター!」
「なんで………?」
今とは髪の長さが違う。眉毛の形も違うし、顔も勇利ほどではないとはいえ思春期特有にすこし丸い。みんな多少色味に差はあれど黒髪で黒い目で、校則縛りのせいで同じような髪型をしていて、まったく同じ制服を着ていて、そのうえヴィクトルさんから見れば見分けがつきづらい違う人種だというのに。その証拠に彼はいまだに頭をひねりながら、ぱたぱたとページをめくって勇利を探していた。しかし、ほどなくして私の斜め後ろをぴしりと指さす。
「あ、これが勇利だね!」
「それも正解です……。なんで分かるんです、か?」
「オレが勇利とを見つけられないわけないだろ」
そんなセリフにも不思議な説得力がある男、ヴィクトル・ニキフォロフであった。


「アメイジング!なんだいこの黒い粘土みたいなもの!甘いぞ!」
「羊羹です。豆を甘く煮て固めたもの」
「ヨーカン!うん、覚えたぞ」
羊羹もいける口らしい。黒くて甘い豆という存在に難色を示す外国人もいらっしゃるそうだが、その部分には抵抗がないみたい。良く考えたらチョコレートだってカカオ豆から出来ているのだしさもありなん。今度たい焼きとかさしいれてみようかな。
酒飲みだから辛党だと思っていたけれど、甘いものもいけるようだった。ヴィクトルさんは本当によくお酒を飲むからなぁ。夕ご飯時に見かけると大体飲んでる気がする。いつもはスケート談義を肴にしているけれど、今日は昔話だ。
「この頃のユーリはまんまるだし小さいし、本当に子ブタちゃんだ」
「小学校のときですね、そのあたりにスケートはじめたんですよ」
「この頃になるとちょっとすっきりしてる。ああ、これはもうほとんど今くらいだね」
「高校生ですからね。本人も知らないけど、密かにモテてたりしたんですよ」
「本当かい!?」
「真面目だし優しいし、顔もかわいいし。それに、昔っから女の子に興味ないです!みたいな感じだったから、そこが逆に良かったみたいで」
「そっか……勇利の魅力を知っている人が、そんなにいたんだね」
そう、勇利は魅力的なのだ。ひたむきで真面目で、弱虫だけど実は負けず嫌い。優しくて奥手で…たまに大胆。義理みたいな顔で渡されたバレンタインチョコに、こっそり本命が紛れ込んでいたことも知っている。
「勇利のことを知ったら、みんな好きにならずにはいられないんだよ。だから長谷津はみんな勇利を応援してる」
も?」
「もちろん、応援してます」
即答した私にヴィクトルさんは首を傾げる。アイスブルーの瞳がさらりと揺れる前髪から覗いて、どきりとしてしまう。
「そっちじゃないよ」
「え?」
ヴィクトルさんの瞳は苦手だ。色は青くて冷たいのに、その奥では炎が燻っている。得体がしれない、なにかすごく恐ろしいひとに見える。見つめられるだけで心臓が縮み上がって、どくどくと震える。
も、ユーリを好きになった?」
きゅうと喉が締まって、鼓動が酷くなった。ほんの一瞬だけ目の前が暗くなったけれど、すぐに取り繕う。かすれた声しかでなかったけれど。
「ええ、まあ、友達…ですし」
「そういう意味じゃなくっていうのは、キミならわかってるだろ、子ジカちゃん」
「っ……そ、その、子ジカちゃんっていうの、なんなんですか」
話をそらしたくて乾いた笑いで言葉を濁すけれど、彼は何も答えなかった。答えずに、私の言葉を待った。不格好に上げた口角はすぐに重力に負けてしまう。
秘密にしてたのに。誰にも言わなかったのに。
ふっきれたと思ったのに。
勇利のことを知れば、好きにならずにはいられない。優しくてひたむきな男の子、情けなくて、負けず嫌い。たまに大胆。笑う時少し眉毛が下がること、太りやすくて痩せやすいこと。
勇利の好きなものなら全部言える。好物はカツ丼。ヴィクトル・ニキフォロフが大好きで部屋中にポスターを貼ってあること。優子さんのことが、大好きなこと。

────そして、私のことをちっとも女の子として見てくれなかったこと。

「っ………ごめんっ!!」
こちらを伺っていたヴィクトルさんが驚いた様に目を見開いて、白い腕が私の頭を撫でた。それからぎゅうと抱きしめられる。弾みで、膝の上に乗っていたアルバムが鈍い音を立てて床に転がった。
「ごめんっ…!、Sorry! Извиниっ!……Извините………」
ヴィクトルさんのシャツに染み込んだ水滴で、私は自分が泣いていることに気がついた。


「もう、全然いいんですけどね。勇利とはそんなんじゃないなって気持ちもあるし……初恋をこじらせたと言えば、そんな感じかもしれないですけど」
でも、本当にもういいんです。と念を押す。
漸く落ち着いた私に待っていたのは言い訳をする作業だった。勇利のことは恋に恋する幼さが見せた初恋だったのだと思う。複雑な気持ちだけれど、少なくともこれ以上の進展は望んでいない。それだけははっきりと言えた。
強いていえば、中学生のときの稚拙で馬鹿な恋をする自分への涙だった。
貸してくれた肩に手を置いて離れれば、今更ながらに恥ずかしくなる。ヴィクトルさんになんてことさせてるんだろう。突然泣き出した上、肩まで借りてぐだぐだ自分語りとか、恥でしかない。
目が合ったヴィクトルさんは珍しく気まずそうな顔だった。年下の女を泣かせた負い目なのかもしれない。彼のこんな顔は初めて見た。そう思うとなんだかおかしくて、ふつふつと笑いがこみ上げた。
「大丈夫かい?」
「す、すみません、つい」
「……本当に?」
「ええ、ヴィクトルさんが困った顔してて、面白くて…」
「そんなに面白い顔してた?」
「いいえ、ヴィクトルさんが困ってるのが面白いんです」
泣いた後に笑いだしたせわしない女に、彼は少し面食らったようだけれど、そのうちいつものように微笑んだ。しなやかな指が目尻に残る涙を拭って、それからぎゅうと再びハグをされる。彼の親愛表現はとてもオーバーなので、そろそろちょっとだけ慣れてきた。それでもシャンプーの香りが鼻をかすめて、胸はどくどくと高鳴る。
「オレを困らせて楽しむなんて、キミは悪女だね」
「い、いやでした?」
心配してくれたのに笑うなんて不躾だったかもしれない。気分を害しただろうか、恐る恐る聞いた私の耳元で、ふふ、と含んだような笑いが響く。
「きっとお前はそのうち、勇利なんか目じゃないくらいの男と恋に落ちるよ」
「な、なんですかそれ、予言?」
今度は彼が私の肩を掴んで顔を上げ、ぱちりとひとつウィンクをした。
「さあ?どうだろうね」










(ヴィクトルが勇利disったみたいな口説き文句になってますが、ヤコフ曰くヴィクトルは「自分が一番と思ってる男」なので許してください……)