春の嵐


(ゆーとぴあの営業スタイルがわからない)



幼馴染みの実家だからとそのまま居着いた職場は家族経営でのんびりしていて居心地がよかった。我が地元最後の愛すべき温泉宿、しかしその長閑な居場所は幼馴染みによって姿を変えてしまった。
「申し訳ありませんが、現在ご利用されない方のご入館はお断りしております…!!」
「ほかのお客様のご迷惑になりますので、お写真などはお控えくださいませっ!」
「申し訳ありません、営業は10時までです!」
この国は何だかんだでフィギュアスケートファンは多い。気持ちはわかる。素晴らしい競技だし、そのうえ今地元にいるのはあのヴィクトル・ニキフォロフ。私だって初めて見た時は驚いた。
いまだに驚いている。でもそればかりじゃ仕事にならないので、今日も心を鬼にしてマスコミ対応をしてお客様をなだめ過度な行いをされる方をいさめ、やっとこさ閉館へとこぎつけた。
「おつかれー、ちゃん」
「真利さん、お疲れ様です……」
ちゃんお風呂はいってってー。御夕飯食べてくよね」
「いただきますー…」
疲労困憊の私を真利さんとおばさまが優しく宥めてくれる。お風呂と賄いつきなのはここの魅力だ。今日の夕ご飯はなんだろうかと浮き足立ちつつひと風呂浴びて座敷へと向かえば、いつの間にやら勇利とユリオとヴィクトルが並んでいた。いまだに来日騒動が収まらない営業時間中は三人ともあまり座敷に顔を出さないのだ。そのうえ今日はみっちりと練習をしてきたらしい。
「おかえり勇利」
「ただいま…」
「ただいまー、もこれからごはん?」
「おかえりなさいヴィクトルさん。ええ、まぁ…」
よく考えたらこのアスリート三人、こんな時間に食べててもいいのかしら。特に太りやすい勇利。
「勇利、お茶入れといて」
「はいはい…」
「ユリオくんは手伝って」
「っせーな、なんでオレが…」
「私ひとりで4人分も持つのやーよ」
こちとらもう退勤時間である。もう私服にまで着替えているし、プライベートタイムまで他人の面倒は見ていられない。勇利は私の人使いの荒さには慣れているし、ユリオくんは年下なので使ってもOK、みたいなところある。
「オレは?」
「……ヴィクトルさんは、いいですよ」
「えー、オレもを手伝うぞ」
「……えっと、じゃあ…テーブル拭いてください」
「はぁ?なんでヴィクトルだけ特別扱いなんだよ!」
「それは、年上だし勇利のコーチだし…お客様だし?」
「オレも客だっての!」
噛みつきながらも私のあとについて厨房へと来てくれるユリオくんは結構な働き者である。彼越しに振り返ってみれば、目が合ったヴィクトルさんはにっこりと笑った。全世界が胸をときめかせる笑顔だ。テレビ越しであれば私も素直にドキドキできただろうけれど、こうして実物が間近にいると火力が違いすぎる。
正直言って、ヴィクトルさんが苦手なんだ。





「美味しかったねー、ゴチソウサマー」
「ごちそうさま」
夕ご飯はカレーだった。食器をまとめていると、ヴィクトルさんがすっくと立ち上がる。なにをしても存在感のある人だ。
「今度は、オレがやるよ」
「あっ……」
彼が厨房まで食器を下げる様はどこか背徳感があった。そんなことをさせていたら、全世界のヴィクトル・ニキフォロフファンに殺されそうだと空恐ろしい気持ちになる。きっとこの場でこんな気持ちを抱いているのは私だけで、厨房にいたおばさまはその証明みたいにいつも通りおっとりと笑った。
「まー、びくとるさんありがとうねぇ」
「ゴチソウサマ!」
「ごちそうさまです…」
「あ、ちゃん。もう帰るんかね」
「え、ああ。はい。帰ります」
もう23時近い。遅番勤務とはいえ帰って眠りたい頃だ。お風呂に入ったあと軽く粉を叩いて眉毛を描いてしまったから、これも落とさなきゃ。
季節はずれの寒波に引っ張りだしてきたコートを着ていると、ヴィクトルさんは眉を顰める。
、これから帰るの?」
「帰りますよ」
「もう外暗いのに。危ないぞ」
「いつも帰ってるから平気ですよ」
家に帰らないわけにはいかないし、近いし治安もいいし、心配されるようなことは何も無い。
「オレが送るよ」
「そんな、大丈夫ですよ!」
「でも」
「このあたりって治安いいですし、毎日通ってるんですし、大丈夫!」
そっかぁ…と残念そうにヴィクトルさんが呟く。じゃあ帰ろうと通用口に足を進めた私と、見送ってくれるらしくついてくるヴィクトルさんの耳に、テレビニュースを見るおばさまたちの声が飛び込んできた。


「はー、このあたりで強盗なんて、珍しかー」
「怖かねぇ」
『男の特徴は黒いヘルメットに黒いコートを羽織り──』


座敷から漏れ聞こえるアナウンサーの声に私たちは顔を見合わせた。
「……………」
しばらくの無言の後、ヴィクトルさんはへらりと笑う。私も笑顔を返したけれど、もしかしたら引きつっていたかもしれない。
「やっぱり、お願いしてもいいですか」
「勿論だよ!」






「……さむい、ですね」
「そう?」
「ああ、ロシアはもっと寒いんでしょうけど……」
雪こそ止んだものの、寒波の影響は強い。寒さとともにやってくるなんて、ヴィクトルさんはサンタクロースみたいだ。
隣を歩く彼を見上げると、明るい月の光に照らされてまるで現実感のない人に思えた。こんなに近くにいるのに、不思議な人。これがオーラというものなのだろうか。
「サクラがキレーだねぇ」
「そうですねぇ……」
そうだ、この人は桜みたいな人だ。確かにそこにあるけれど、美しさだけを残して消えてしまうような人。舞い落ちる花弁には、手を伸ばしても触れられない。ひらりと躱されてしまいそうで、手すら伸ばせない。
違う世界にいる人。
は」
声をかけられて息を飲んだ。まるで映画の登場人物に声をかけられたみたいな、危うい気持ち。トムに声をかけられたセシリアはこんな気持ちだったのかな。
はオレが嫌い?」
「──えっ?」
いつも通りにふわふわと笑って、彼は私に問う。首をかしげた拍子にプラチナブロンドがさらりと揺れて、その隙間からキラキラとした両眼が覗く。色素の薄い、ガラス玉みたいな瞳だ。つやつやした唇は、私の為にもう1度問いかける。
はオレが嫌いなの」
「そ、そんなことは……」
嫌いじゃない。嫌いとかじゃないんだ。いい人だし、素敵な人。優しくてかっこいい、貴公子みたいな人だ。
「ヴィクトルさんは、立派な人ですし……そんな、嫌いなんて…」
「それはオレと出会ってから感じたこと?」
それとも、と彼の手がついと伸ばされる。思わず仰け反るけれど、警告するように立てられた彼の人差し指は私の鼻先をつついた。
「オレと出会う前から思ってた事?」
「……それは…」
は、オレの名前を知ってる?」
「……ヴィクトル・ニキフォロフ」
そんな今更な問いに、答える必要すらないと感じた。ヴィクトル・ニキフォロフ。全世界の憧れ、生きるパイオニアでリビングレジェンド。勇利のあこがれの人。
「きっとキミにとって、オレはロックスターかなにかなんだろうね」
「それは……あなたは、そう例えられることもあるでしょう」
「オレはユーリのコーチとして来たけれど、ロックスターとしてキミに出会ったわけじゃないぞ」
鼻先を押さえたままの指がそっと下りて唇に触れる。これ以上の私の失言を、許さないとでも言うかのようだった。
「1人の人間としてキミと出会ったんだよ、
見上げる彼の瞳はやはり明るい月に照らされて宝石のようにきらきらと輝いていた。表情は相変わらず余裕を浮かべた笑顔だったけれど、ゆっくりと言葉を噛み砕いていた私を見つめる間に彼は「ふふ」と鼻にかかる甘い笑い声を漏らして。笑顔を消した。
するりと蛇が巻き付くみたいに腕が腰に回ってきて、それに気づいた時にはもう遅かった。唇に触れていた手は私の頭をがっちりと抑えて、逃げ場はどこにもない。近づいてくる顔が怖くてぎゅうを目をつぶったけれど、失策だった。なにをされるか予測できなくなるからだ。
ぞわりと産毛を感じられるくらい頬と頬が触れて、耳に温かい吐息が触れて、身体がカッと熱くなる。囁く声がすぐ側で鼓膜を揺らして、背中がゾクゾクと粟立った。まるで強いお酒を一気飲みしたみたいにくらくらする。
「────キミがそれを理解出来た時に、オレ達ははじめて出会えるんだよ…………Дурачка моя」
短いロシア語の後に、冷たい耳たぶに熱い唇が触れたのはたまたまだったのだろうか。彼が離れていく気配がして思わずその袖を掴んだ理由と、同じであればいいのに。
名残惜しげに袖を引いたわりに何も言えずにいる私に、いつもみたいなヘラヘラとした顔に戻った彼は笑う。
「ふふ、顔が真っ赤だ」
平然としている彼にこれ以上赤い顔を晒したくなくて、胸倉を掴んでばすんとそこに顔を埋めた。温かい匂いがして、トクトクと脈打つ心臓を感じる。小心者の私と違って、ゆっくりと鼓動を刻んでいる。この人は桜みたいに綺麗だ。桜みたいに、手を伸ばしてもひらりと躱してしまう。だけど一度触れてしまえたら、雪みたいに溶けて消えたりしないのだ。
寒波の運ぶ風が私の頬を冷ますまで、彼が手のひらで背中を撫でる感覚だけを辿っていた。
どうにか体裁を保てる顔になったら、最初になんて声をかけよう。はじめましてじゃ物足りないけと、きっと、どんな言葉でもいつもみたいに笑ってくれるはず。