恋の終わり夢のはじまり

(蔵馬切甘)




 校庭の桜は別れのために咲いてくれる気は無いらしい。新しい門出を祝えと言いたくなるが、彼らは彼らで春に新入生を出迎えるので忙しいのだ。パイプ椅子に腰掛けて理事長だか校長だかの最後の長話を聞いていたので固くなった身体を、ううんと力を込めて伸ばす。晴れてよかった。花粉症の親友は辛そうだけど。

「あたしこんな顔で写真撮りたくない〜」
「感涙っぽく見えていい感じかも」

花粉症の鼻声に、ほんの微かに寂寥の涙が混じるのは見ないふりをした。そろそろみんな大人になるのだから、そういう気遣いだって覚えたかったのだ。

「おっ、。お前いつごろ経つんだっけ?」
「明日の朝には。卒業式は来れてよかった!」

 ギリギリだったのだ。本当は少しでも早く越してあっちの生活に慣れたい気もするし、しかしせっかくだから最後のイベントには出たい。飽きるほど聞いた校長先生のお話だって、最後に聞きたかったのだ。
 隣の席だった男子の言葉を皮切りにクラスメイトは気楽な別れの言葉を口にする。

「あっちでも元気でな」
「水には気をつけろよ〜」
「いい男いたら紹介してね!」
「同窓会には出ろよ!」

 毎日顔を合わせていたみんながじきに県外に散り散りになってしまうという実感すら湧かないのに、国外に出ることなどまるで現実感のない別れの言葉。そうされると急に自分の選択が正しかったのかどうか不安になって、心が軋んだ。けどすぐに頭の中で否定する。正解なんてそもそも無い。

「記念にオレの第二ボタンやるよ!」
「どうせ誰も貰い手がいなかったんでしょ?」
「チッ、ばれたか」

 手の中で金のボタンを転がして元野球部は笑う。部活動一直線だったので彼女を作る暇がなかったのが心残りらしい。後輩の女子マネが遠くからチラチラとこちらを見ていることを教えてやれば、彼はさっさと踵を返して小柄な高2女子の方へと駆けて行った。野球部で培った脚力。

「じゃああたしの花あげるわ」
「いらな……貰っとこうかな」
「あれ、意外」
「うん、せっかくだし」

 奇跡的に3年間同じクラスだった親友は胸の赤い造花をつまみ上げて私の手に握らせた。お返しに私のを、と思って胸ポケットに刺していたそれをに触れたが、「あたしはいい。なんか造花って苦手で」なんて言って拒否される。生花の花粉にはやられるし造花は苦手だしでまったく花に縁のない子だ。

「みて。あそこの南野くん超ヤバイ」
「すごい、追い剥ぎ感」

 きゃー、という甲高い声。つい顔を向けてしまうほどひときわ賑やかな人混みの中心で、背の高い南野くんの頭が見える。周辺には卒業生と在校生が入り交じった人だかり。ほとんど女子。ボタンを貰おうとみんな大わらわらしい。

「あたし南野くんと同じ学年でよかったわぁ。うちの学校の顔面偏差値1人で上げてたから」
「来年から寂しくなっちゃうかもね」

 ミスター盟王も今年で卒業。後輩や先生はさぞ口惜しいだろう。学年中の注目の的であった彼の進路はまさかの「就職」で誰もが度肝を抜いた。彼の成績なら大抵の学校には入れたろうに。奨学金だって貰えるだろうに。頭のいい人の考えることはわからない。

 遠くで部活の後輩が呼ぶので「また夜に」と言って彼女が駆けていく。あの子は運動、私は勉強に打ち込んだ。今から思えば部活の一つにでも入っておけばよかったと思うが、そんなこと今更だろう。手を振って見送れば漸く実感が湧いてきた。明日からは日本語の通じない国で1人きりだ。あの子みたいな気の合う友達が作れたらいいが。
 まばらになってきた人混みをすり抜けて薄暗い昇降口を登る。下駄箱の名前は昨日のうちに自分たちで外した。来客用の茶色いスリッパをぽてぽて鳴らしながら着いた教室にはもう誰もいなかった。黒板の落書きだけが夕日に照らされて祭りの名残を思わせる。これを消す後輩達は大変だ。
 窓から外を見下ろせば、あのよく目立つ南野くん目当ての群れがいつの間にか消えていた。南野くんは要領がいいからうまく抜けたんだろう。さすがの手腕。この3年間嫌という程見てきた。

 静かな校舎に、誰かの足音が響く。規則正しくて少し早歩きな音。近づいてくる気がして振り向けば、スリッパのパタパタした音は教室の前で止まった。開け放したままの引き戸に見慣れた顔が覗く。ついさっき探したばかりの人だ。

「南野くん」
、こんなところで……」
「南野くんこそ……」

 ファンはいいの? と冗談めかしていえば「餌がなくなったので逃げていきましたよ」なんて言って制服をつまんだ。ボタンというボタンが無い。袖の小さなボタンすらどこかへと消えてしまっていた。今ごろ女の子たちの手のひらの中だろう。えらくアイロンがかけやすくなってしまった制服を見たら彼のお母さんどう思うんだろう。

「花までとられた」
「制服まで取られなくてよかったんじゃない?」

 あの勢いなら取れるものは全部剥いでいきそうだった。南野くんのボタン、なんか勉強運のご利益ありそうだし。「そうですね」なんて笑った南野くんは私の右手を見た。大事に握ったままの友達の花だ。

「記念にもらったの。潰れないように荷物に詰めなきゃ」
、留学するんだって?」
「うん。南野くんは就職でしょ?」
「なんでみんな知ってるんだろう」
「そりゃ有名だよ、主席が進学しないとか」

 すっとぼけて頭を掻く南野くん。絶対に自分の話題性を知っているはずなのに。むしろ私としては南野くんが私の進路を知っている方が不思議だ。

「あーあ、残念。南野くんのボタン欲しかったのになぁ」

 彼は片眉をあげて目を開く。3年間みたことない表情の意味は驚愕。いや、困惑かな。今日で学生生活ラストの彼は少し気が緩んでいるのかもしれない。三年間で一番寛容、そうじゃなきゃボタンというボタンをむざむざ引きちぎらせたりしないだろう。

「学業成就のお守り、的な?」
「俺のこと、菅原道真だと思ってる?」
「トト神とかどう?」
「せめて稲荷とかがいいですね」

 なにがせめてなのかわからないけれど。会話の切れ目に少し戸惑って、なにを話そうかと口を開く。人気者の彼は少し話したらどこかに言ってしまうと思ったのに、もう少し私にかまうつもりらしい。
 ボタンのない右手がついと持ち上がり、私の方へと向いた。肌は白くて爪は桜色だ。うらやましくなるくらい綺麗な手である。

の花、オレにくれませんか?」
「花? こんなもので良ければいくらでもあげるよ」

 赤いウレタンの塊を胸から外して手に載せれば、ありがとうと笑って細くて節くれだった指がそっと握った。可愛い顔して男の子の手だ。代わりに私は親友の花を胸に刺す。

「えーっと、私だと思って大事にしてね?」
「するよ」

 冗談に真顔で返されたので少し拍子抜けして、なんだか恥ずかしくて頬を掻く。南野くんの緑の目が細められて、彼は静かに笑った。

「私には何かないの? 学業成就のお守り」
「そうしてあげたいのはやまやまだけど、オレはこのありさまなので」

 学校中のヒーローはおどけて首を傾げる。なんだか損した気分になってしまう私は浅ましい。そういえば、一番大事な第二ボタンは誰の手に渡ったんだろう。

「ああそうだ。知らないだろうけど、オレ手品が得意なんですよ」
「手品?」
「手を出して」

 南野くんがお手本のように、水を掬うみたいに両手を合わせて差し出すので、私は素直にそれを真似した。バサリと留め具のなくなった学ランを脱いで、南野くんは私の両手のうえに被せる。ふわりといい匂いがした。女子の間でどんな香水よりも好感度ナンバーワンな南野くんの匂い。男子の学ランが結構重いということを私は今初めて知った。
 ワンツースリーの陳腐な声で学ランが捲られ、私の手のひらには軽くてしっとりしたものが触れる。厚い生地の下から現れた赤いバラはまるで今綻んだばかりのように生き生きと輝いている。

「えっ、すごい! どうやったの!? ていうかどこに持ってたの!?」
「それは企業秘密」

 服に仕込んでいたのだろうか。今日1日で散々人にもみくちゃにされたと言うのに、小さな薔薇の花は自分の美しさを誇って咲いていた。そっと鼻先を近づければいい香りがして、そうだ南野くんの香りは薔薇の匂いなんだと気づく。

「それから、これもは知らなかっただろうけど」

 学ランを着直した手品師は前を合わせようと少し手を動かしたけど結局諦めた。留め具は永遠に帰ってこない。きっと誰かの宝物になるんだろう。

「オレ、のこと好きだったんですよ」
「…………………それは」

 少し震えた手のうちの薔薇を潰さないように、ゆっくりと心を落ち着ける。南野くんの瞳はまっすぐとこちらを向いていた。私は逸らして薔薇を見つめる。赤い薔薇だ。数日後には朽ちて散ってしまうだろう。生きているんだから、仕方ない。

「……それは、今……言う事?」
「……もうダメですか?」
「うん、もう遅い、かも」

 時間は進む。3年間はあっという間だった。きっと今日もすごい速さですぎていって、明日にはまた朝日が昇る。明後日の朝日は、南野くんとは違う時間に見ることになる。自分の道を進めば進むほど、彼とは離れていくばかりだ。そう思えばむしろ、南野くんと同じ空間にいたこの3年間のほうが不思議だ。
 多分、大人はこういうものを運命って呼んだりするんだろう。

「参ったな。一生後悔しそうだ」
「南野くんでも、そんなことあるんだ」
「ひどいですね。オレだって失恋したら引き摺りますよ」
「南野くんは誰かに恋なんてしないかと思ってたから」

 南野くんは笑った。少し眉を寄せた困ったみたいな顔だ。

「するよ。オレだって、人を好きになるんだ」
「南野くんはすごく大人だったから、恋なんてしないと思ってた」

 そしてそれが、私の一生後悔すること。
 キスくらいねだればよかったけど、シャイな日本人には無理な相談だ。南野くんみたいな素敵な男の子にそんなことを言ってもらえた、それだけで充分。それ以上は荷物に詰めきれない。あとでどれだけ後悔するとしても、私はたったひとつだけを選ぶと決めた。素敵な男は星の数ほどいるけど、私の夢は私だけのものだった。

「じゃあ、南野くん。お仕事がんばってね」
も、あっちでも元気で」
「うん。いい彼氏作るね」
「悪い男には気をつけて」
「うん、南野くんみたいな人に引っかからないように気をつける」

 今度の冗談には南野くんも「ひどいなあ」と笑った。それでも否定はしないあたり、彼は自分を知っている。
 ほんの少しだけ視線が交わって、すぐに視界がぐにゃぐにゃ歪む。夕日が眩しかっただけ。手の甲で拭う私に南野くんは少し迷ってから指を伸ばしたけれど、その手が私に触れることは無かった。
 教室を出れば折りよく耳慣れたチャイムがなる。散々聞き飽きたけれどそれも最後だ。最後に1度だけ振り返る。私に突き返された薔薇をそっと握りしめた南野くんと、もう目は合わなかった。
 それが最後。






(リクエスト/幽白で、蔵馬との切甘が希望です。)

あ、甘い…?

春先に書いたんですがぼやぼやしてたら時期外れになって驚き。盟王の制服ボタンなくない?みたいなのは書いてから気づいた……でもボタン全部引きちぎられる蔵馬は見たい。

コメントありがとうございました!