名前をちょうだい

(蔵馬と近所のロリコン少女)




アリス・リデルという名前は完璧だ。
アリスという名を高みまで押し上げたのは他ならぬ彼だろうが、リデルというそのイノセントな響きの姓を持って生まれた時点で彼女の類まれなるその神秘性は決定された。
その点、という名前はどうだろう。ひどく凡庸で、なんだかつまらない。どこにでも転がっていそうな、ドラマチックさの欠けらも無い名前だ。女の子の名前なんて、とりあえず苗字に関していえば将来的に変わることが多いのだけれど、その将来までが私にはひどく遠く思えた。
には好きな人がいる。好きで好きで、どうしようもなく焦がれる人だ。その人のことを思うだけで胸が熱く苦しくなって、その人を見ているといっそ泣きたくなる。小さな胸がひりひりと焼け付いて、お父さんのお酒を間違って飲んだ時みたいに喉が熱くなる。この想いが恋じゃないというのなら、きっとこの世界に恋はない。宿題をしている時、ふとした拍子に南野、なんて名前をノートの隅に書いては消してしまうことを、この世界中で以外の誰も知らない。こんな気持ちを誰かに知られてしまったら、まるで猛獣の檻に投げ込まれたお肉みたいにめちゃくちゃにされてしまうことをは知ったいた。大人はいつだって、子供が秘めやかに大切にしているものを暴いて壊すのが好きなのだ。そして“そんなくだらないものはやめなさい”なんてわかった口を聞く。お父さんやお母さんや学校の先生に、恋のことなんてわかるわけないのに。
だから心の中でだけ、眠る前に呟くのだ。
南野秀一が好きだ。
は、南野秀一が好き。


「秀一お兄ちゃんのお母さん、再婚するの…?」
朝ごはんの席でお母さんが言ったことを、ぼんやりと反芻する。秀一お兄ちゃんは近所に住む高校生のお兄ちゃんだ。クラスの男の子とは全然違うくて、大人っぽくて優しくてかっこいい人。小さい頃からよく遊んでくれて、今でも顔を合わせると優しく笑ってくれてるから、その度に胸がきゅうと苦しくなって頭がふわふわしてしまう。好きになったきっかけなんてもう覚えていない。気付いたら好きだった。いちごのショートケーキを好きだったのと同じように、きっと本能が好きなのだ。
秀一お兄ちゃんの苗字は南野で、いつか結婚して南野になるのが夢だった。南野、すごくすごく素敵な響きだ。ありふれて飽き飽きしている自分の名前が、不思議なおまじないみたいに感じる。ヒディアスキンキーって感じだ。ヒディアスキンキーがどういう意味かは知らないけれど。
そんな秀一お兄ちゃんのお母さんもすごく素敵な人で、1度大きな病気をしてしまったのに回復したすごい人だ。何度もお見舞いに行って、その度に痩せていくお兄ちゃんのお母さんを見ていたので、未だにその回復力は信じられないほどだ。でもお兄ちゃんのお母さんなんだからそんな奇跡もあるのかもしれない。そんなお兄ちゃんのお母さんが再婚するのであればそれは幸せなことだ。祝福されるべきこと。でもそんなことになればきっとお兄ちゃんの苗字は変わってしまう。南野秀一から、佐藤秀一とか山田秀一とかそんな名前に変わってしまうのだ。全国の佐藤秀一さんや山田秀一さんには悪いけれど、やっぱり秀一お兄ちゃんは南野秀一という名前が似合っている。それが変わってしまうなんて。
「はあ……」
朝ごはんの時にそんな話を聞いてしまったから、今日のは一日なにをしてもお腹がずんと重かった。給食を噛んでいても、体育着に着替えていても、先生に当てられてもずっと落ち込んだままで、クラスメイトはおろか先生にまで心配されてしまうほどだ。
とぼとぼ、俯いてつまらない通学路を歩いている。灰色のアスファルトは見つめてもなにも楽しいことが見つからない。この世界の退屈をまとめて固めたみたいな顔をしていた。
ちゃんじゃねーか」
「桑原さん!」
男の人の声に顔をあげれば、そこには桑原さんが居た。
桑原さん、桑原和真さん。
秀一お兄ちゃんより少し年下でよりも年上、秀一お兄ちゃんがよくお勉強を教えている中学生だ。
が図書館に行った時に出会った人で、それ以来図書館や道端なんかで顔を合わせたら挨拶をする仲。大きくて顔はいかついけれど優しい人である。
「どーしたんだよ、えらく落ち込んでんな」
「そうですか?」
そうでしょうね。事実、わたしは今とても落ち込んでる。和真さんは少し困ったような顔をして、「なんか飲むか?」と自販機へ向かった。
「い、いいです!」
「遠慮すんなって、うら」
あっという間に買ってしまったホットココアの缶を、桑原さんはアンダースローでぽんと投げた。慌てて両手を広げてキャッチする。熱いくらいのスチール缶を、服の袖で包んだ。
「あ、ありがとうございます…」
「子供が遠慮すんなって」
「こども……」
子供でさえなかったら、秀一お兄ちゃんに好きだって言えるのに。
俯いてしまったに桑原さんは更に慌てたようだ。二人でベンチ座って缶を開ける。桑原さんは無糖のコーヒー。そんなものはとても苦くて飲めない。
「学校でなんかあったのかよ」
「ううん……」
「家でとか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
「じゃー、蔵馬となんかあったのかよ」
「…………違くて、そんなんじゃなくて…」
蔵馬、というのは秀一お兄ちゃんのあだ名。一体全体南野秀一をどうすれば蔵馬になるのか不思議だけど、なぜだかしっくりくるニックネーム。
はスチールの缶を指で擦って、エンボスの文字をなぞる。
話したくないなぁ。
「ふーん。ま、オンナノコなんだからオレにゃわかんねえ悩みもあるわな」
桑原さんは指先で頬をこすって、底抜けに明るく笑った。
本当はわかっているのだ、秀一お兄ちゃんとは結婚なんてしない。できない。
10年とか20年とかずーっと何年も経ったあと、今は見たこともないような人の苗字になったあと、ふとした時に思い出す名前、それが南野秀一なのだ。
大人の男の人である秀一お兄ちゃんが、のことを相手にしてくれるわけない。きっと今だって恋人がいたりして、が大人になる前に結婚してしまうのだ。
そんなこと、わかっているけれど。
「………おっ、蔵馬」
「え!?」
桑原さんの声にぱっと顔を上げる。きょろきょろ、見たわしても誰もいない。ただ、にんまりと笑っている彼が隣に座っているだけだ。
「うっそだよーん」
「ええ!!」
ちゃんはほんと、蔵馬のことが大好きだよな」
「……そんなんじゃ、ないよ」
ぽつりと呟いて、はぬるくなったココアを飲む。じんわりとした甘ったるいぬくもりが喉を濡らした。
大好きなんかじゃない。
大好きなんていう普通の言葉では、とても表しきれない。
の手の中で、指先で、ぬるいスチール缶が少しだけへこんだ。
「おっ、蔵馬じゃねえか」
「……2回も騙されたりしないもん」
「いやほんと、蔵馬だって」
「もう、そんな嘘ばっかり──」
むっ、と睨んで顔を上げる。桑原さんは相変わらずにんまりと大きな口で笑っていた。反対にはぽっかりと、口を大きく開けてしまった。
「どうしたの? ちゃん」
だって、そこに居たのは他でもない蔵馬──秀一お兄ちゃん──だったから。


「おばさん、最近会ってないけど元気?」
「う、うん。いつも通り…だよ」
秀一お兄ちゃんがあんまりにも綺麗に笑うから、は少し目をそらした。心臓が痛いくらいにドキドキしていて、もしかしたら秀一お兄ちゃんに聞こえてしまうかもしれない。は強ばる唇をなんとか動かして会話する。お兄ちゃんに変な子だって思われてないといいけど。
「桑原くんと」
「ん? な、なに?」
「いや、桑原くんと随分仲良かったみたいだから。何話してたの?」
「えっと…」
少しだけ目を泳がせた。大した話はしていない。話したことなんてほとんど覚えてない。の頭は秀一お兄ちゃんでいっぱいだった。朝からずっとそうなのだ。
「そ、そうだ、秀一お兄ちゃん…の、お母さん、結婚するんだよね」
「え? ああ、そうですね」
急に話が変わってしまったので、お兄ちゃんは少しだけ目を見開いた。けれどそれもすぐに優しく、いつもみたいにやさしく細められて、穏やかな声で応えが帰ってくる。
「相手の人、何ていうの?」
「畑中さんと言うんだよ。母さんのパート先の社長なんだ」
「社長! へえ、すごいね、玉の輿だね!」
「オレが言うのも変だけど、そんなに大きな会社じゃないよ」
そういう秀一お兄ちゃんは、けれど幸せそうだった。秀一お兄ちゃんはお母さんのことをとても大切にしていて、そういうところも素敵だなと思う。そんな幸せなイベントを素直に祝福できない自分が恥ずかしくて、は少し俯いた。
「じゃあ、秀一お兄ちゃん…畑中秀一になるんだね」
自分でも驚くほど暗い声がでて、は慌てて口を塞いだ。見上げると、秀一お兄ちゃんは今度こそ変な顔をしていた。
「ち、ちがうの! 嫌とかじゃなくて、秀一お兄ちゃん、南野って苗字の方が似合うから……」
あわあわと取り繕うように告げると、お兄ちゃんは少しだけ口を噤んでじーっとの方を見た。困惑と恥ずかしさでオロオロ視線を動かす。お兄ちゃんの目はまっすぐしていて、見つめられると胸が苦しくなる。
「……いや、オレは南野秀一のままですよ」
「えっ?」
「学校との兼ね合いもあるし、畑中さんと養子縁組はしないことにしたよ。だから、オレはずっと南野秀一のまま」
「……そう、なの?」
養子縁組とか、再婚の制度とかはにはよくわからなかったけれど、結論だけが重要だった。南野秀一は畑中秀一にならない。南野秀一は、ずっと南野秀一のまま。
「よかった…!」
今度はものすごく嬉しそうな声が出てしまって、秀一お兄ちゃんは驚いた後に笑った。もつられて笑ってしまう。よかった、今日1日がもやもやしたことなんて、もう全部杞憂だったのだ。南野秀一がずっと南野秀一のままなんだから、世界は素晴らしい。
「でもいいの? お兄ちゃんのお母さんは畑中志保利になるんだよね?」
「まあ、オレももうすぐ18だし。高校出たら働くつもりだから、苗字のことなんて大した問題じゃないよ」
「そうかなぁ」
「そうですよ、オレにとっては」
そうなのかなぁ。そうなのかも。秀一お兄ちゃんが言うんだからきっとそうなんだ。はこんなに苗字のことでぐるぐる悩んでいたのに、お兄ちゃんからしたら瑣末なことみたいだった。不思議。ずっとお兄ちゃんを傍で見てきたけど、お兄ちゃんはふいに世の中のむずかしいことを全部投げ捨てたみたいなことを言う。
「お兄ちゃん、高校出たら働くんだね。おっとなー」
「大人じゃないよ。まぁ、就職したら祝いに来てくださいね」
「うん! お兄ちゃんも、わたしが就職したらお祝いしてね」
「それは随分先のことだね」
にはそれ以前に受験したり卒業したり、そんな色々がずっといっぱいあるのだ。もしかしたら大学にも行くかもしれない。お兄ちゃんにお祝いを貰えるのは、ずっと先かもしれない。
「はやく大人になりたいなぁ…」
秀一お兄ちゃんは愉快そうな瞳でを見る。いたずらっぽく瞳を輝かせて、本当に楽しそう。
「焦って大人になる必要ないですよ」
「でも…」
秀一お兄ちゃんはよりずっとはやく大人になる。社会人になったら、恋人だってできるかもしれない。がようやく大人になった頃には、結婚して、もしかしたら子供だっていて、の知らない南野秀一がの知らない南野ナントカを家族にしているかもしれないのだ。秀一お兄ちゃんが、の知らない秀一お兄ちゃんじゃなくなってしまう。そんなのってない。はこんなにずっと好きなのに。それが報われないことになるのが、置いていかれてしまうのが、ただただ怖かった。
「大丈夫、ちゃんと待ってるよ」
「へ?」
が大きくなるまで待ってるから、キミはゆっくり大人になればいい」
ぽん、ぽん。と、大きな手のひらがゆっくりの頭を撫でた。見上げた秀一お兄ちゃんは、けれど目が合う前に手のひらを離してしまった。
歩き出す彼には慌ててついて行く。「待って」なんて言わなくても、お兄ちゃんの歩幅はいつだってに合わせてくれる。すぐに隣に追いついて見上げた秀一お兄ちゃんの顔は相変わらず綺麗で、は今自分が世界一幸せなんだと思った。






(リクエスト/幽白、蔵馬と近所のロリコン少女(本来の意味で)の甘め が読んでみたいです。)

本来の意味でって注釈があったのでぐぐったらラッセル・トレーナーに行き着いて、文脈的にこれかな?って思って書いたんですが、この意味でいいんですか!?

この子好きすぎてなんか変だぞ?くらいを目指しました。恋に恋してる感を出したかったです。

リクエストありがとうございました!