ふれて、未来

(明るく控えめな幼馴染夢主と妖狐のことで葛藤がある蔵馬)




秀ちゃん──南野くん、は私の幼なじみだ。私のお母さんと南野くんのお母さんが中学からの友達で仲が良かったのがすべての始まり。同い年の子を生んだ2人にとって性別の違いは些細なこと。私のお父さんの転勤を機に南野家と同じ町内に引っ越して、幼い私達は引き合わされた。それからずっと、高校生となったいまでもご近所さんである。
、準備できた?」
「待って!変じゃない?」
「大丈夫大丈夫、あんたが主役じゃないんだから」
もう少し違うおだて方をしてほしい。私はボレロを纏ってもう1度鏡を確認する。紺のパーティードレスはこの日のためにお母さんが買ってくれたもので、美容師さんに編み込みシニヨンにしてもらってメイクもお願いしたので、マネキンが私でもトータルするとちゃんとそれらしい装いになった。
「志保利、ウエディングドレス着るのかしら」
「着るんだって、南野くんが言ってたよ」
「あらあんた、いつから秀ちゃんのこと南野くんなんて呼び出したの?」
「南野くん、女子に人気あるから秀ちゃんなんて呼んだら変に思われちゃうよ」
呼んでたタクシーが来たので、母はそれきり追求してこなかった。私はタクシーに乗り込んで外を見る。晴れ、天気のいい素敵な日。向かう先は市内で一番大きいホテル。
今日は南野くんのお母さんの結婚式だ。


控え室には既にばらばらと人がいた。再婚なので元々招待客は少なくしているらしい。おばさまの交友関係までは把握していないので、誰が南野家の参列者で誰が畑中家の参列者かは知らない。私と同年代くらいの人もチラホラと見える。

「南野くん!」
お母さんがふらりと離れていってしまって所在なさげにしていた私を見つけ、南野くんが駆け寄ってくれる。その後ろから男の人が興味深げにこちらを伺っていた。背が高くて目つきが強くて剃りこみが入った怖い感じの人で、私は慌てて目をそらした。
「おめでとう、南野くん!」
「キミが来てくれてよかった、母さんも喜ぶよ」
南野くんが私見つけてくれて、傍に来てくれた。それだけで嬉しくて私は今週一番じゃないかってくらい笑顔になれた。最近なにかにつけ彼は忙しいみたいで学校だってたまにさぼっている。そのことをおばさまに告げ口したりはしないけど、心配はいつもしていた。
「そうだ。桑原くん」
南野くんは振り返って人を呼んだ。さっきの背の高い目つきの悪い剃り込みの入った男の人が近づいてきて私は面食らう。“桑原くん”はまじまじと私を見つめてから大きな口でにんまりと笑った。
「なーんだ、蔵馬お前カノジョ居て──」
「彼女は幼なじみの田中です」
くらま?桑原くんの言葉を遮るように南野くんはきっぱりと声を張った。こういうときの南野くんを詮索してもいいことはないので、私は聞こえないふりをしてぺこりと頭を下げる。
「はじめまして…」
「こっちは友人の桑原くん」
「ど、ドーモ……桑原和真です」
桑原くんもどうやら南野くんの恐ろしさをよく知っているみたいだ。元々高い上背を背筋をビシリと伸ばしてさらに高く見せながら、ぎゅうと腰を90度に折って返礼してくれた。南野くんは満足そうに笑う。
「彼は中二だからよりも年下なんですよ」
「ええっ!?ちゅ、中学生?見えない…」
「ウス、宜しくお願いします!」
体育会系のノリで挨拶をして、彼はニッコリと歯を見せて笑った。表情豊かで優しそうな子だ。見た目はちょっと怖いけど。
「南野くんとどういう知り合いなの…?」
「あっ、えーと」
何気ない、むしろ当然といえる私の質問に彼は瞳をうろうろとさ迷わせて挙動不審だ。助け舟を出すみたいに南野くんが口を開く。
「元々は友達の友達で、いまは勉強を教えてるんだ」
「そーそー、よく市図書館で世話になってんだよ!」
「ああ、あそこの学習コーナー広いもんね…」
南野くんの返答はまったくもって趣旨をずらして要点をぼかしていたけれど、やっぱりそこにも踏み込めずに私は笑う。彼の答えと同じく、曖昧な笑顔で。
話しているうちに挙式の時間になって、私達はそろってチャペルに移動した。南野家の親族で固まった席の後ろに私と桑原くんは並んで座って、配られた賛美歌のカードを見ながらひそひそ話す。
「南野くん、最近ピリピリしてるよね」
「あー、さんから見てもそうすか」
「うん……何か知ってる?」
「あー…………………。……い、いや。何も」
絶対知ってる間だったけど、なんだろう。男の子って秘密主義なのかな。


「おばさま、綺麗だったね」
「ん」
私の言葉に南野くんは生返事だ。きゅうと綺麗な眉毛を顰めて難しい顔をしている。
南野くんは私と一緒にいる時は大抵家まで送ってくれる。小さい頃、南野くんの家に遊びに行っていた時も、公園で南野くんが男子とサッカー、わたしが女子とおままごとといった風に別々に遊んでいた時も、たまたま駅で出会った時も。 そういえばずっと昔私が川で溺れて、南野くんにおぶってもらいながら帰ったこともあったっけ。ともかく、彼はとても面倒見よく私のそばに居てくれたのだ。本当はめんどくさがりのくせに。
もっとも、最近は会うこと自体が少なかったのだけれど。
今日みたいな日はおばさまに着いているものだと思ったけれど、帰ろうとした私を「ちょっと待って」と引き止めたあと、おばさまと話をつけて戻ってきた彼は「じゃあ、帰ろうか」と当然みたいに言った。
「よかったの?今日はおばさまと一緒にいなくて」
「どのみち母さんたちは今日は2人でホテルに泊まるから、オレと秀一は暇なんだ」
「二人で夕飯食べに来る?」
そういった時南野くんがふっとほんの少しだけ表情を緩めてなんだか安心したけれど、彼はすぐにまた険しい顔に戻った。
「そのことなんだけど…──」

続く言葉を大人しく待ったけれど、それより先に南野くんの腕が私に覆いかぶさる。驚いて私は舌をかんだ。
「きゃ!?」
「チッ……」
南野くんの舌打ちは私に向けられたものではなかった。
二人きりの帰り道は、気付かないうちに見知らぬ影を連れていた。
私をかばうようにして立つ南野くんの向こう、道に立ちはだかるように大きな生き物がいた。人間ではない、と直感が警鐘を鳴らす。2メートルはあろうかという長身に、緑色の肌、引きずるように長い腕が6本。長いマズルに大きな牙が生えたそれは狼にも似ていたが、目は一つしかなかった。
「っい………いやぁあっ!?」
「蔵馬ぁ……女連れとは余裕じゃねぇか……」
「ずっと殺気を飛ばしていたのはお前か…」
蔵馬って誰?この生き物は何?
ガクガクと身体が震えて今にも地面にへたりこんでしまいそうだ。
これはダメだ、これはダメだ。明らかにダメだ。
目を合わせてはいけなかったし、会話もしてはいけない、そういう類のものだ。街を歩く不良なんかよりももっとこわい、暴力という概念が形をとったような生き物だった。
「しゅ、しゅうちゃっ……逃げなきゃっ…」
前に立つ彼の腕を引くが、彼はビクともせずにそこに立っていた。動揺もせず、冷や汗一つ掻かず。ただ目の前のものを見つめていた。
「オメェは殺す、その前に手足引きちぎって目の前で女を犯して食ってやる……」
「………どこの手のものだ?」
南野くんの、聞いたこともないような冷ややかな声についに身体がぺたりと冷たいアスファルトの上に頽れる。
目の前の何かよりも、南野くんのほうがずっと恐ろしかった。私はこんなに彼を知らない。こんな秀ちゃんを、知らない。
「オレぁ一匹狼よ……テメェをぶっつぶして黄泉様に認めてもらう…」
「そうか…」
一瞬だった。彼が髪の毛からするりと長い蔓を伸ばしたかと思うと、次の瞬間には目の前の腕が1本ごとりと地面に落ちた。
「よかった、それならお前だけ殺せばいいんだな」


「ぅ……ぅえ……」
じゃあじゃあと流れる冷たい水に紛れて、私の嗚咽が響く。お腹の苦しさと口の中の苦さに、生理的な涙がこぼれた。せっかく今日のために綺麗にしたのに、この顔みたらお母さんがびっくりしてしまうかもしれない。
「全部出してしまった方がいい」
そういって背中をさする南野くんに甘えた訳じゃないが、私はぎゅうとお腹を抱えた。南野くんが顔にかかる髪の毛を指で掬ってくれて、服にもかからないよう布を押さえてくれる。そのために一生懸命めかしこんだと言っても過言では無い、素敵なホテルの美味しいご飯はもう流れてしまった。
ひと通り戻してしまって、わたしが口をゆすいで手を洗い、公共物である公園の排水溝を綺麗にしている間に、南野くんは温かいお茶を買ってきてくれた。まだふらつく私を抱え上げてベンチへと座らせ、自分は缶コーヒーのプルタブを開ける。
私は温かいペットボトルをそっと握った。冷たい水で悴んだ手に心地いい。
「……南野くん、さっきの、なに?」
南野くんはまっすぐと前を向いたまま、少し言い淀んだようだった。ああ、困らせてしまった。南野くんの触れられたくない場所に触れてしまった。
「…………話したくないなら、別にいいから…」
そのまま沈黙が続くのが嫌で、「お茶、ありがと」とお礼を言って蓋を開ける。あったかい緑茶はいがらっぽい喉を通って数刻前に比べて随分と中身が寂しくなってしまった胃へと流れ込む。目を閉じるとさっきの理解の範疇を超えた出来事が浮かんで、寒さと違ったふうに手が震えた。なるべく素敵なことを思い出そうと必死に頭を動かす、美味しい料理、素敵な式。控え室でのささやかな出会い。そうだ、“くらま”だ。
わたしが“くらま”と聞いたのはさっきが初めてじゃない。数刻前、結婚式の控え室、新しく出会った彼が言っていたじゃないか。
南野くんを、蔵馬と呼んでいたじゃないか。
「…………南野くん」
私が呼びかけても返事はしなかった。瞳もこちらへは向かない。代わりに彼は少しだけ息を飲んだ。
「……蔵馬、なの?」
その時になって彼は初めてこちらを向いた。綺麗な緑色の瞳だ。その瞳がなにか私には知らない色に燃えている気がして、背筋がぶるりと震えた。
返事はなかったけれど、それが答えだった。
「怖い思いをさせてすまない」
彼はジャケットを脱いで、震えている私の肩にかける。ふわりと南野くんの匂いがした。知っている匂いだ、10余年間傍で感じてきた匂い。だけど今ではこの匂いしか、南野くんのことを知らないのだとわかった。血の気の引いた私の手を、彼はそっと取る。暖かい手だったけれど、ペットボトルを貰った時みたいな安心感はない。
「キミの、記憶を消すことが出来る。怖いことなんて覚えていなくていい」
「や、やだ、南野くん……!」
有無を言わさぬ声色だった。怯えきった私はどうにか力を振り絞って彼の手を振りほどく。ベンチから立ち上がると、座ったままの南野くんはもう1度私の手を取ろうとして、そして止めた。
「そんなのはやだよ、南野くん…」
…」
南野くんを困らせている。それがどうしようもなく嫌で、少し怯んでしまう。南野くんに迷惑をかけたくない。南野くんに嫌われたくない。面倒な子だと思われて、ほかの女の子みたいに遠ざけられたくない。そのために自分から離れたのだ。だけど本当は、秀ちゃんの隣にいたい。幼なじみだと、自分だけ特別なんだと、誰よりも秀ちゃんのことを知っているんだと胸を張っていたい。学年一美人の相田さんよりも、同じ生物部の伊藤さんよりも、私の方が秀ちゃんに近いのだと思いたい。
だけど現実は彼の前で嘔吐してこんな情けない恥ずかしい姿を見せて、そのうえ今彼に記憶まで消されようとしている。
自分にもコントロール出来ない感情が氾濫して瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。南野くんは、消すと言ったら消すだろう。彼はそういう人だ。
「いやだ……やめて……」
「キミのためなんだ……全部忘れて、ただの幼なじみになろう」
「いやだよ、幼なじみなんかっ!」
秀ちゃんの身体がぴくりと固まるのがわかった。言ってしまったことを後悔したけれど、もう言葉は戻らない。幼馴染なんて嫌だ、恋人になりたい。秀ちゃんのことが好き。秀ちゃんのことが好き。秀ちゃんのことが好き。気を抜くとそんな言葉がぼろぼろこぼれてしまいそうな自分が嫌だった。
だから精一杯取り繕うように、これ以上私の恋が破綻しないように、自分で自分の恋を殺さないように。
私のささやかな幸福を、これ以上恋で殺さないように。
こぼれ落ちた涙をぐしゃぐしゃ腕で拭って、表情を消した秀ちゃんを見下ろす。
「……いいよ、南野くん」

あなたが望むなら、私の記憶を消して。


図書館の静寂は心地いい。
読み終えたばかりの本をぱたんと閉じて深くため息をついた。深さでいえば海とまでは行かずとも、小さい頃溺れかけた川の一等深いところくらいまではある気がする、そんな深いため息。
なんだか最近すごく疲れているのだ。あれだけ楽しみにしていた南野くんのお母さんの再婚式だって、参列したはずなのに記憶にない。
送ってくれた南野くんの談だと、私はどうやら熱があったらしい。気づいたらドレス姿に南野くんのジャケットを羽織ったまま部屋でぼんやりしていたのだから相当だろう。寝相が悪かったのか髪はなんだかぼっさりと乱れていたし、
慌てて南野くんに電話をして、ジャケットはクリーニングに出したあと返却することになった。返す時に謝ろうと思ったけど、その日玄関先に出たのは彼本人ではなく南野くんのお母さんだった。
南野くんには、式の日以来会っていない。
あのあとすぐ夏休みにも突入してしまったので、学校やその道すがらにも会うことが無くなった、それはまぁ当然のことだ。ついでに言えば夏休みの間南野改め畑中夫妻は再婚旅行に行っていて、その隙に南野くんも旅行に出かけていたらしいから、会えないのが自然である。
その時はそう思っていた。
でも時が経ち畑中夫婦がお土産片手に帰ってきて夏休みが終わり、新学期が始まっても、私は南野くんに会うことは無かった。
元々私と南野くんはクラスが違うのでそうそう会うことは無い、けれどこんなふうに、何ヶ月も背中すら見かけないことは初めてだった。
人生で初めて、南野くんが近くに居ない。
ファンの女の子たちから漏れ聞く話では、どうやら遅刻や早退は混じりつつも学校には来ているみたいだ。それならいい、きっと新しい家族との折り合いもあってゴタゴタしているのかもしれない。
“あのこと”もあるし───。
私ははたと閉じていた目を開けた。目の前には明明と灯る読書灯と読み終えたばかりの本。その表紙の赤が嫌に鮮やかに目に付いた。
…………“あのこと”って、なんのこと?
首を捻るが、私のモノローグに答えられる人なんて当然だが居ない。
またため息を、今度は浅くついて立ち上がる。ほかの本でも探しに行こう。特に面白そうなものがなければ、家に帰って寝てしまおう。
9から始まる番号の棚をウロウロと歩いてめぼしいものを探して、一番上の棚に目をつける。たしかあの書籍の底本である英語版が、英語の長文に引用されていたはずだ。ほんの一部分の短いものだったけどすごく惹き込まれる話だった。
続きが気になるな、そんな思いでついと手を伸ばすが、本には届かない。かかとを挙げても一番上の本棚の板に指がかかるくらいまでしか伸ばせない。ほんとうに自慢じゃないが、決して長身モデル体型では無いのだ。
きょろと左右を見渡しても、踏み台になるものは置かれていない。
荷物を持ち替えて気合いを入れてもう1度腕を伸ばす。先程よりも記録は伸びたけれど、指先はブッカーでコーティングされた背表紙の下の方を滑るだけだ。
諦めて踏み台を探してこようか、とそれでも未練がましく指を本棚に引っ掛けた時、ふいに空気が揺らいだ。
カコン、と頭上でモノが動くを音がして俯いた顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは今まさに自分が取ろうとしていた本にひょいと誰かの手が触れているところだった。
「あ……」
それ、私が借りようと……。振り返れば、そこにいた人と目線の先に突きつけられたもので2重に驚いた。ずいと眼前に向けられた本は、たったいまその人が取ったものだ。
その人は、背の高い男の人だった。失礼ながら一見図書館なんて似合わない、ガタイのいいキリリとした目つきの悪い男性。リーゼントにポンパドール、一目見て不良だとわかる風貌。
「これっすよね、さん」
「え、あ」
「あれ?違ったんすか?」
身長差ゆえ顔の前に突き出された本を恐る恐る受け取る。見知らぬ不良らしき人は私の名前を呼んで、予想外なフランクさでにこりと笑った。
「え、だ……誰ですか?」
「はあ?オレオレ、オレっすよ」
オレがダレかわからないから聞いているわけで。手にした本を感謝をこめてぎゅうと抱きしめる。いい人そうだけど、知らない人に名前を知られているなんて普通に怖い。
「桑原っすよ」
「く、くわばら……さん?」
「ほら、蔵馬のお袋さんの再婚式で会った!」
「………く、くら、くらま……?」
ズキン、頭をキリで刺されたみたいな痛みが走る。くわばら、くわばら、くらま、くらま──くらま! どこかで聞き覚えがあるけれど思い出せない。脳内でその言葉をいう度、ズキズキと刺すような痛みが増していく。
真っ青になって頭を抑える私の顔を、くわばらさんは慌ててのぞき込む。
さん!」


「ごめんね、桑原くん…」
「いや、いいっすよ」
外の風に当たろうと図書館の外のベンチに座る私に、桑原くんは上着を貸してくれた。お礼もかねて財布を貸して、あったかい飲み物を二つ買ってきてもらう。二人で並んで座るベンチ、傍から見たらカップルに見えるのだろうか。
「もう頭痛平気っすか?」
「うん、だいぶ……」
あのあと大変だった。
頭を抱えて蹲る私に桑原くんが心配そうに寄り添ってくれたけど、それが不良にボコられている図に見えた人が図書館職員さんや警備員さんやらを引き連れてきててんやわんや。少し頭痛が収まってきた私が慌てて弁解をして、二人で平謝りして外へと逃げてきたのだ。
「オレの見た目がこんなんなばっかりに……」
「ううん、突然倒れた私が悪いよ……ごめんね」
聞けば彼は高校受験のため(え、年下!?)勉強に来ていたらしい。この市立図書館の学習コーナーは広いので丁度いいのだ。
「ちょーぉど蔵馬が来るところだからよ、さん今日は送ってもらえよ」
「くらま…?」
「あ、えーっと……ほら、あの」
「……えっと、南野くんのこと?」
「そ、そーそー!!南野のあだ名!」
つきん、と。また頭が痛んだ。顔曇らせた私に桑原くんは心配そうだ。本当に面倒見のいい優しい子だなあ。
「風邪なんすか?」
「うーん、南野くんのお母さんの式のとき私熱あったらしくて……それ以来ずっと体調不良…。だから、桑原くんのこと思い出せないのそのせいかも。ごめんね」
「熱?そんな感じなかったけどなぁ」
「うん……私も不思議」
ぼんやりと頬杖をついて記憶を反芻する。どう頑張ろうと、霞ががかった映像は大したものを見せてくれない。こんな形で体調を崩したことなんてないからまったく不可解だ。
狐につままれたような気分。
「───?」
「!」
その声に思わず肩が跳ねる。桑原くんのコートがずるりと肩から落ちた。借り物の大きなそれが地面についてしまわぬよう慌ててたくしあげる。
砂に塗れた地面のタイルを、見慣れた革靴が叩いた。声だって靴だって、その持ち主なら見なくてもわかる。
桑原くんが彼の名前を呼んだ。
「くらっ……南野!」
見上げた彼は、少し困ったような顔をした。自分の仲のいい友達と──避けてる相手、そんな二人の組み合わせに流石に驚いたようだ。
「桑原くん……それに、
「……南野、くん……」
「ちょーどいいとこに!さん体調良くないみたいでよぉ!オレのベンキョーはいいから送ってやってくれよ!」
「そ、そんな……!」
慌てて立ち上がって、桑原くんのコートを整える。背の高い彼のロングコートなので、立っていても長くて地面に擦れそうでひやひやした。
「いいよ、だいぶ良くなったし。1人でバスとか帰るよ…!」
コートを突きつけたけれど、桑原くんは受け取ってくれない。「でもよぉ」と眉を顰めて南野くんを見た。その人はトレンチコートの袖をすこしずらして腕時計を見て、顔を上げずに言った。
「バスはまだ20分ほど来ませんよ」
「ほらー」
「ま、待つよ……あ、タクシーとか…」
桑原くんに頼んで、そこらへんの電話ボックスで呼んでもらおう。やさしい年下の男の子は渋々己のコートを受け取った。彼がそれを着直している間に鞄から財布を取り出す。飲み物を買ってきてもらう時に中身は確認済みだ、お小遣いをもらったばかりだからそれなりにまとまった金額が入っている。桑原くんをパシってばかりで悪いが、どこかで埋め合わせをさせてもらうことにしよう。
いそいそと、南野くんの方を少しも見ないようにそれらの動作をすべて済ませて、私は桑原くんに向き直った。
「ごめん、悪いけどタクシー呼んで…」
しかし、電話代のために預けようとした合皮の財布は彼ヘは届かなかった。ぽすんと、まるで当たり前のように受け取って私に突き返される。
南野くんはじっと無表情で、わたしがそれを受け取るのを待っていた。
「え、あの…」
「オレが送るから、呼ばなくていい」
「でも…」
「いい。……桑原くんは今日は自習ということで」
うおーだか、うえーだかいう声を上げて桑原くんが返事をした。いつまでももたもたしていることにしびれを切らしたかのように、南野くんは私の鞄に財布をねじ込む。そのまま、胸の前で縮こまっていた腕をとって歩き出した。
そうなってしまえば、地に落ちた凧が引きずられるように私は彼について行くしかない。後ろで桑原くんが「またな〜」と言うのに、2人とも空いている手を振って応えた。


川辺の冷えた風が強く吹きつけて私の体温がどんどん下がっていくのに、南野くんの手は熱いくらいだった。きっと、わたしが寒々としているのは自然のせいだけじゃない。南野くんに迷惑をかけてしまった、そんな事がずんと胸を重くした。
「……ごめんなさい」
南野くんは答えない。
数歩前を歩いて私を引っ張る彼の顔はここからじゃ見えなかった。どういう顔をしているのか想像もつかない。ほんの少し前までは、南野くんのことは志保利さんの次に知っているとすら思っていた。記憶のないあの結婚式の日くらいまでは、きっとそう思えていたのに。今では彼のことが全くわからなくなっていた。
ほんとにもう、最近わからないことだらけだ。南野くんが私を避けだした理由も、いつの間にか出来ていた男友達も、急に悪くなった体調も、“くらま”のことも、何故かふわふわして思い出せない日のことも。そんなものがごちゃごちゃして、私はもうなにを考えていいかわからない。
パニックになりそうな気持ちの中で、たった一つだけ、光明のように確かなことを思い出す。
おぼろげな輪郭をなぞる様に、糸をたぐるようにどうにか彼のことを考える。南野秀一、私の好きな人。わからなくなっても好きな人。
いま縋りつかないと、永遠に遠ざかってしまう人。
「秀…ちゃん……」
ぽつり、と。蚊の鳴くように小さな声が喉から漏れてしまった。しかし南野くんには聞こえたらしい、彼はピタリと足を止めてしまった。私も歩みを止めて、ぼんやりと掴まれている腕を見つめる。痛い沈黙のなか、そのうちに繋がれたそこはぐにゃりとぼやけてうまく見えなくなった。
「秀ちゃん、すき……」
涙とともに溢れ出てしまった言葉を、聞こえない彼ではなかった。握られたままの腕がひときわ強く掴まれて痛いくらいだ。
「すき……」
ぼたぼたと泣いてしまうのは、腕よりも心が痛いからだ。1度口に出してしまった言葉は悲しいほどに口触りが良くて、私は何度も繰り返してしまう。
「好き……秀ちゃん、好き……」
…」
乾いた声が名前を呼んだ。
嗚咽でうまく喋れなくて、私はただしゃくりあげながら顔をあげた。振り向いた彼はぎゅうと眉を顰めていて、私はなにも言えぬまま立ちすくむ。
「…………
もう1度名前を呼んで、それからまた彼はしばらく黙ってしまった。もはや少しだけ落ち着いてきてしまった私は、ゆっくり呼吸を整える。ヒックと鳴る喉を抑えて息を吸い込むと、冷たい空気が熱暴走しそうな身体を通るのがはっきり分かった。五臓六腑が凍えきってぶるりと身体が震える。

随分と長い間、2人は何も言わなかった。

秀ちゃんは珍しく俯いていて長い前髪が顔にかかっていたけれど、彼は私より背が高いのでその表情はよくわかった。彼は女の子に告白されたらこんな顔をするんだな。冷静になってきた頭がそんなことを思う。
告白の答えなんて、聞かなくても分かった。
「そんな嫌そうな顔、しないでよ……」
傷つくなぁ、なんて笑うと彼は眉間のシワを少し深くして、それから緩める。
「……あーあ、スッキリした!」
まだ掴まれたままの腕を振ると、その手は案外簡単に離れた。ちょっと痛くて腕をさする。強く掴まれてたのであとになってるかもしれない。
「うん、ごめん、忘れて!」
いつまでもこんなことをしていたら風邪をひいてしまう。彼は冷たいけど優しくないわけじゃないから、私の方から諦めてあげないとずっとこのままだ。
「忘れてって…」
言葉を思い出したみたいに、ようやく私の名前以外のことを彼が喋った。感情を得たばかりのロボットみたいにぎこちなくて、つい笑ってしまう。
「うん、言っただけで満足。ごめん、無かったことにして!」
「そんなこと言われたら……無かったことになんて…」
「だから、ごめんって。勝手な事言ってるけど、仕方ないじゃない」
両手をあわせていただきますみたいに謝る。
つい言っちゃったんだから。コップの水が溢れるみたいに、ぽろっと零れちゃったんだから。
「泣くほど好きなのに、なんでそんなこと言えるんだよ」
そんなことを言われて、今度は私の眉間にシワが刻まれる番だった。
秀ちゃんは私の剣幕を見て、お母さんに怒られた子供みたいに眉尻を下げる。
ずるい、と思った。そんなずるい顔をされるとは思わなかった。
「だって秀ちゃん、私と話す時いつも迷惑そうにするんだもん!」
「してない!」
大きな男の人の声にびっくりと身体を揺らす。秀ちゃんの大声なんて体育祭の応援の時以来で、私は思わず周囲を見回した。夕方の川辺は珍しく人がいない。遠くで猫だけがこちらを見て、足速にどこかへいってしまった。
「…………してませんよ、そんな顔」
もう1度、秀ちゃんはぽつりと言った。
難しいことを考えるみたいにくしゃりと髪を掻き上げて、それから瞳がまっすぐこちらを向く。その顔はやっぱり険しい。うそつき。と心のなかで罵った。
「今してる」
「キミはなにもオレのことがわかってない」
「わかんないよ、秀ちゃんのことなんか…」
「教えてあげますよ」
冷えきった身体がつかの間の暖を得たので、私は少しだけ息を吐いた。それからゆっくりと、変じゃないくらいのペースで吸う。よく知った匂いが鼻腔を擽った。秀ちゃんの胸は厚いコート越しにどくどく震えていて、私はなぜだかひどい罪悪感に駆られた。背中に回った腕をぎゅうと締めてきて、やっぱり秀ちゃんは力の加減が下手だなと思う。
「そんなこと言われたら、手放せなくなるだろ……」
「……私は、秀ちゃんのそばにいちゃいけないの?」
「キミがオレのそばにいたら、またこの間みたいに怖い目に合う」
「このあいだ……?」
「失言です、忘れて」
なにそれ。クスリと笑うとまた少しだけ腕が強く私を抱く。
恐る恐る、知らない動物を撫でるみたいにそろそろと背中へ腕を回しても、彼は何も言わなかった。
「オレのどこが好きなんですか…」
「わかんない……好きなんだから、しょうがないじゃん…」
「そうか……」
秀ちゃんは深いため息をついた。
そういえば私はここの川で溺れかけたことがあったな。何歳のころか忘れたけど、あのときは秀ちゃんが飛び込んで助けてくれた。いつだって迷惑でお荷物な私を見捨ててこなかった秀ちゃんは優しい。
秀ちゃんは私の肩に顔をうずめて、世界中でここにしか酸素がないみたいに息を吸いこんだ。それからゆっくり吐き出す。
「オレも同じ気持ちです」
顔を上げた秀ちゃんはやっぱり眉をしかめてて、でも眉尻は下がった変な顔をしていた。細めた瞳の奥に私が映っているのが見える。
もっと直接言葉にして、なんて言ったら困らせるかな。ぎゅうぎゅう、痛いほど抱きしめられたまま考えて、結局は実行しなかった。彼が案外口下手で、不器用なことは知っているのだ。けれど聡い男の子だったから、代わりとばかりに目を閉じる私に唇が降ってくるまでそんなに時間はかからなかった。
明日から学校で、秀ちゃんのことなんて呼んだらいいんだろう。






(リクエスト/明るいけど控えめな幼馴染ヒロインで、妖狐と南野の間で葛藤がある南野蔵馬のお話が読みたいです。)
うそ、めっちゃ長くない…?
蔵馬の事情をまったく知らない夢主との組み合わせが好きです。
リクエストありがとうございました!