おきつねさまの夜

(幽白)

(蔵馬と魔法少女な義理の妹)

(なんでも許せる方向け)




夜道は好きじゃない。
けれどにはこっそりと家を抜け出さなければならない理由があった。コートを着込んで、お部屋に隠しておいた靴を履いて窓枠にそっと足をかける。
の部屋は2階。普通の女の子なら窓から抜け出すなんてそうそう出来ないけれど、幸か不幸かは普通の女の子ではなかった。
一度窓枠に腰掛けて冷たい夜風に足を揺らす。勢いをつけるようにぷらぷら何度か足を動かしたあと、えいやとばかりにその身を投げ出した。
どすん、なんて不格好な音で庭に落ちたりせずに、の身体はふわふわと、まるでタンポポの綿毛みたいにゆっくりゆっくりと地面に近づき、ついには何の音も立てずに庭の茶色い土へと着地した。
そのまま静かに、そっと門を抜けて冷えきったアスファルトを歩く。曲がり角を折れて、おうちが見えなくなった頃に漸くは息をついた。
「シノさん、出てきていいよ」
コーン。
控えめに鳴いて、小さなキツネがのフードから飛び出した。パーカーのフードに入ってしまえるくらい小さなキツネのぬいぐるみだ。本来は布とフェイクファーとワタだけで出来た、くんにゃりとしたやわらかいぬいぐるみだけれど、シノは当然みたいにぷるぷると身体を動かし、尻尾を揺らした。
「うむ、では今日も妾のためによろしく頼むぞ」
ビーズでできたつぶらな瞳の可愛らしいぬいぐるみが、無いはずの口でそんなふうに鷹揚に言うので、は少しおかしくなった。
「それで、どっちの方角なの?」
「ふむ……巽じゃの」
「……えーっと」
「そちらのほうじゃ」
昔の方角がわからないに、シノはくにくにふくふくとしたやわいぬいぐるみの手で南東を指し示す。あっちには学校がある。経験則から、学校は“そういうもの”が集まりやすいことをは知っていた。ひとまず向おうと目測をつけて、は自分の靴をそっと撫でた。何の変哲もないスニーカーが蛍光塗料よりも明るく淡く光り、は1キロは先の学校に、ひとっ飛びとまではいかずとも数える程の跳躍でたどり着くことが出来た。
「あれ…!」
近くのビルの屋上から学校の屋上へと飛び移る途中、俯瞰で見た校庭にはおよそ生き物とは思えないような大きな獣がいた。目は赤く、身体は燃えるような黒く、学校で一番樹齢の長い銀杏の木よりも大きい。
“力”の強いがやってきたことを嗅ぎ付けて、大きな唸り声をあげた。地面が揺れる程のものだったけれど、周辺の家々は誰も起きてこないし、野次馬もやってこない。ここだけ結界で切り取られているからだ。
!」
「シノさん!」
どこからともなく現れた木の葉がぐるぐると風に舞い、やがて光りながら大きく柄の長い神楽鈴を形作った。空中でそれを受け取ったは長いリボンはためかせて着地する。
───シャン、と鈴の音が響いた。
シノの力が己に流れ込んで来る感覚に、は目を閉じる。再びその目を夜空に輝かせた時、黒かったはずの瞳は月のように金色に妖しく光った。
「裏見葛葉、断ち切らせてもらいます!」


「うむうむ、見事なり」
シノさんに妖を封じた札を食わせると、に夜な夜なこんなことをさせている狐は満足そうな声で言った。
が魔法少女──本当は陰陽道とか、そういうものの類らしいのだが──になったのはおよそ一年前のことである。シノさんという女ぎつねと出会ったのが、こうして夜な夜な深夜徘徊をしなければならない事態の始まりだった。
シノさんというのはどうやらかつて力のあった狐であったらしいのだが、今はその力があちらこちら散り散りに分かれてしまっているらしい。それが“魔界”とやらの影響で悪さをしだした。シノさんは1人で──1匹で?──それを退治していたが、全盛期の力のない彼女1人では限界があった。命からがら敗走し、野垂れ死にそうになっているところにたまたまやってきて助けた人間がであった。
人から見れば狐憑きということになるのかもしれない。しかしシノさんが悪い子だとは到底思えなかった。実際、シノさんの分霊が悪霊化して憑いてる場所や人は、善良な人でも悪事や悪業を繰り返すようになる。がこうして夜中こっそり悪霊を封じれば、その異変は戻るのだ。
ただ1度だけ、“Jr.”とおでこに書かれた不思議なお兄さんに見つかってしまったことがある。彼は「ふむ、まあそういう事情ならば仕方ないな」と何も聞かずなにも言わずにシノさんを一瞥して、そのまま帰っていった。人に見つかったことでは大慌てだったが、シノさんが「うむうむ、まぁ公認ということじゃな」と笑うので理解も納得もできずとも落ち着くことにした。
「そろそろ帰らねば、あのご母堂や勘の良さそうな御令兄に見つかるぞ」
「うん!」
お父さんやお兄ちゃんならともかく、志保利さんや秀一さんに見つかるのは嫌だ。グレたと思われてしまう。
「大変じゃのお、血のつながりのない家族というのは」
「珍しくないことなんだけどね」
家族の誰にも──特に父の再婚で増えた義理の母と兄に──見つからないようは抜け出す時の同じような手順でこそこそ、泥棒かなにかみたいに部屋へと戻った。


ちゃん、夕べ外に出たりしなかった?」
「んぐ」
少し寝不足気味な朝。義母、志保利さんの美味しい朝ごはんを食べていたはびくりと肩を跳ねさせた。食卓には父と志保利さんと。秀一お兄ちゃんはまだ慌ただしく朝の支度をしているところで、もう1人の秀一であるところの義兄は……お部屋にいるのだろうか。いつも早起きだからまだ寝てるってことはないだろうが。
「朝新聞を取りに行ったら、門が開いていたのよねぇ」
「……」
しまった、閉め忘れたんだ。
の家の郵便ポストは門と繋がる外塀に引っ付いたごく一般的なものだ。郵便配達員さんは門を開けずとも仕事を済ませることが出来る。普段は志保利さんがきっちりと閉めているそれが開いていたのだから、違和感を覚えるのも仕方ないだろう。
「秀一くんは知らないっていうし…」
この場合の秀一くんはの実兄の秀一である。志保利さんは新しく出来たほうの息子に君をつけるとことで実の子と呼び分けているのだ。逆にお父さんは南野秀一のほうを秀一くんと呼ぶ。実にややこしい。畑中秀一のことをお兄ちゃんと呼ぶに比べたらずっとやっかいでこんがらがる呼び分け方だった。
「えっと…」
嘘をつく罪悪感を振り切って口を開く。しらないです、というたった数文字だけれど、志保利さんにそんなことを言う辛かった。
「オレだよ」
「あら、秀一!」
けれどそんな嘘をついてしまう前に、の声を遮るように男の人の声が響いた。聞きなれた、穏やかそうな落ち着いた声。とっくに制服姿の秀一さんは、ちらりとほんの一瞬だけを見た。
「ごめん、昨日夜お腹すいてコンビニに行ったんだ」
「まあそうなの」
嘘だ、とは思う。が出入りしていない時にたまたま出かけていた可能性もあるけれど、それでもやっぱり嘘だと思った。そして、秀一さんがそんな嘘をつく理由がわからなかった。
秀一さんは、嘘つきの罪悪感も雰囲気も少しも匂わさず、いつも通りに椅子に座り「おはよう」とに声をかけてコーヒーに口をつけた。
「おはよう、秀一さん」
はもそもそと乾いた口でパンを咀嚼してぬるくなってしまったカフェオレで流し込んだ。
そのあと秀一さんの方は一度も見ずに部屋に戻った。


「いけ好かんのう、あの男」
「秀一さんのこと?」
学校鞄を取りにお部屋に戻った時、ベッドの横でぬいぐるみぶっていたシノさんが首を動かしてそう言った。
「そちとて気づいておるじゃろう。あの御令兄、妖の類じゃぞ」
「そう、だけど…」
鞄を開けばシノはそっと忍び込んだ。ぴょこりと顔を出して、不機嫌そうに耳を揺らす。
「化けて家族に紛れ込み、人間を騙す妖。とてもまともな者とは思えんな」
「でも……秀一さん、変な人じゃないと思うけどなぁ」
秀一さんは妖怪、それももしかしたら強い妖怪かもしれない。けれど真夜中にを襲うような、獣じみた恐ろしい悪霊と同じだとは思えなかった。
「それに妖怪っていったらシノさんも…」
そういった所では口を噤んだ。シノがくたりと力を抜いて本当のぬいぐるみみたいになったからだ。
次いでトントン、と部屋のドアがノックされての心臓は縮み上がった。
ちゃん、いい?」
「は、はい」
秀一さんは断ってから扉を開けた。とっくに登校していると思ったのに。
はあらん限り平静を保とうとしたが、悲しいことに感情を隠すことは魔法(…みたいな陰陽道)を使うよりも苦手だった。
「しゅ、秀一さん、まだいたんですか!」
「いちゃいけないみたいな言い方ですね」
「そっ……そういうわけじゃ…」
ないんですけど…。はもごもごと俯いた。
義兄はくすりと笑って俯くのつむじにぽんと何かを置いた。
「ひゃう!?」
「借りてたゲーム、返すよ」
驚きすぎだ、と声を立てて愉快そうに笑う秀一さんを上目で見上げて、そろそろと頭に手をやる。慣れ親しんだ感触、ディスク状のゲームが入ったプラスチックのケースに指が触れた。
「あ、ど、どうも…」
「面白かったよ、結構難しいゲームやってるんだね」
「うん…好きなの」
受け取ってようやく顔を上げる。下から見上げても完璧に造形の整った顔だった。
その端正な顔立ちがふいに目線を下げた。
「ぬいぐるみなんて、学校に持っていくの?」
視線の先には鞄から顔を出したまま硬直するシノさんが居る。シノさんはぬいぐるみに憑依しているので見た目だけなら完璧なのだが、それでも学生鞄にぬいぐるみが入れられている違和感は拭えない。
「あ、そ…そうなの!ないと落ち着かなくて」
「ふうん」
ひょいとその手がシノさんを掴むのを、は止められなかった。じろじろ見つめられても、プロ意識の高いシノさんは微動だにしない。ごめんシノさん、あとでいっぱい毛繕いするから。
「まあ、いいんじゃないですか?」
「え?」
「傍に無いと落ち着かないものってあるよね」
秀一さんはシノさんを鞄に戻し、「じゃあ、いってきます」と言って部屋から出て行った。
今度は用心して、お部屋の窓から秀一さんが門を開けて出ていくのをはじっと見ていた。
秀一さんは門を閉めてから、まるで分かっていたかのように2階のこの部屋に向けて手を振るので、は引きつった笑顔を返すしかなかった。
「のう、いけ好かない奴じゃろ?」
「う、うーん…」
割と素直に怖いな、とは思った。
秀一さん、悪い人ではないとわかっている。お母さん思いで、父やたち弟妹も大切にしてくれる。頭が良くて見た目も素敵で、決して悪い気持ちで人間のフリをしているわけではないのだと信じている。
けれど、やっぱり物凄くよくわからない不思議な人。
そんなぐちゃぐちゃした気持ちを抱えていたから、頭の出来がそんなによろしくないは到底気づかなかった。やシノさんが秀一さんのことを妖怪変化の類とわかる以上、秀一さんだってこちらのことがわかるのだと。


真夜中、はしっかりと門を閉めてからお家を抜け出した。酉の方角に現れた悪霊は強い。近付いていくだけでその恐ろしさがわかった。
結界が小さいうちに倒してしまわないと、被害が大きくなってしまう。廃病院に出来た結界をくぐり抜けた瞬間、視界に大きな獣が映る。
「っひ……!」
は思わず青ざめた。身体は大きいが、先日学校に出現した獣よりはずっと小さい、サファリパークにいるライオンくらいだ。見た目は犬に似ているけど、きっと狐だろう。しかし身体はぬたぬたとして青く、目があるはずのところにはぶにぶにとした穴が広がっているだけだった。その真っ暗な穴の奥みたいな瞳が結界に侵入してきたに気づいてゆっくりとこちらへ向けられる。
「な、なにあれ!シノさんあれ無理!ダメなやつ!」
「そちの力なら勝てるわい!」
「いやいやいや!!!無理無理無理!!!生理的に!!」
「理論上は良し!!」
「悪し!理論上も悪し! 」
大きな鉤爪が引っ掻いてくるのを跳び上がって避けながら、は絶句する。ああいう生理的に気持ち悪い系は女子中学生には無理なやつだ。
「逃げ惑っても勝てんぞ!」
「わかってるよぅ!」
盾にした木が両断される。ゾッとして、慌てて神楽鈴を取り出して襲い来る爪を防いだ。
「っく…!」
「ゲームで言うと最初の街のボスレベルじゃ!」
「うそぉ!」
どうにか柄で振り払い、跳躍して距離を取る。獣も一歩引いての出方を伺う仕草をした。最初の街、ハードすぎる。
「そちは序盤レベル上げしすぎなくらいじゃから、それくらい余裕で倒せよう」
そんな変なプレイをした覚えはないけれど、シノさんがに嘘なんてついたことないからきっとそうなんだろう。
キッと獣を見据える。獣もまた、の瞳を空虚な眼で見た。
「っ、やっぱむり!」
ゾンビゲームは得意でも実在するゾンビに出逢えば誰だって震えて縮み上がる、そういうことだ。
怯んだ隙に大きな腕を振りかぶられて、の身体は10m後方に叩きつけられた。
「っく!!」
鈴の柄でガードして、身体自体もシノさんの力で強化されているので大した怪我はしなかった。覆いかぶさり噛みつかんとする大きな口を神楽鈴で防いで、はその腹を思いっきり蹴った。
「っ……あれ!?シノさん!?」
気づけば肩に乗ったり周囲をうろうろしたりしていたシノさんがいない。必死に呼びかけても返事もしない。
「まさかっ…!?」
いつの間にかあの獣に食べられてたり!?
踵で土を抉って跳躍する。ぬるぬるぬたぬたした身体は蹴りつけても滑ってしまう。再びは土の上にスライディングして、獣と向かい合った。
胸に手を当てて、なんとか冷静になろうと深く息を吸う。少なくとも今神楽鈴を手にしているということはシノさんはどこかで無事なのだ。一人でもちゃんとしなきゃ。大丈夫、シノさんは私なら出来るって言った。
けれど、シノさんというかけがえの無い友達が急にどこかに行ってしまったのだ。私に何も告げず、悲鳴一つ挙げず。それがどれだけ異常事態なのか。
怯んだ隙に獣は大きく身体をしならせてを弾き飛ばした。
「ぁうっ!」
飛ばされた衝撃で、身体をなにかの石碑に大きく打ち付けた。衝撃で大きく咳き込む。流石に痛い。
蹲り揺らいだ視界に、二三度足踏みする獣が見えた。その巨体が駆け出してこちらへ突進するのを見ては目を閉じる。ぽろり、と瞳から滴が溢れた。
だめだ、ごめんシノさん。やっぱり勝てないよ…。
痛みと恐怖を待つことにしたの身に、しかしそのどちらも来ることは無かった。

「この程度で手間取ってもらっちゃあ困るぜ」
「──……!?」

男の人の声だ。
シノさんと似たようなことを言う、知らない男の人の声。こわごわと目を開けば、その光景に身体が強ばった。
────白い男。
そこに居たのは、見たこともない白い男の人だった。
白い肌に、白い服。銀とも思える長い髪と、似た色の耳と尾。狐だ、と思った。あれは犬でも狼でもない、狐だ。
狐は片腕で黒い大きな獣を締め上げていた。獣は「キュン」と鳴いて巨体をグッタリとさせている。見たこともない紫色の蔦が乾いた土からするすると伸びて、獣を拘束するように絡みついた。
「あな、たは……?」
「………」
男は私の問に答える代わりのように、くいと顎をあげた。白い中で瞳だけが爛々と金色に輝いている。
「倒す訳では無いのだろう。はやくしろ」
「あ、は、はい!」
そう、わたしはこの獣を倒すつもりは無いのだ。
「裏見葛葉──」
鈴の柄に手を添えると微かに金色に光る。先へと向けて指をすべらせると、細い刀身が現れた。
淡く黄金の輝きを放つ刀、裏見葛葉の狐刃。シノさんの分身だけを切れる、妖狐葛葉の妖狐葛葉による、妖狐葛葉のための妖刀。
あ、同じ色だ、と。
彼の瞳と同じ金色だと、獣の身に刃を突き立てる一瞬思った。
さくりと、ケーキにナイフを入れるみたいな軽さで黒い身体を貫いた。金の刀身が黒い獣をまるで排水口みたいにぐるぐると吸い取って、最後には何も残らなかった。紫色の蔓は行き場を失ったようにぺたりと地面に倒れ、溶けるように消えていった。
「はあ……」
疲れた。吸い付くして重くなった刀身を地面につきたてて、へなへなと座り込む。刀は金の光を霧散させるように元の鈴へと戻った。
「えっと、あの、ありがとうございます……?」
「フン、例なら子飼いの狐に言うんだな」
っ!」
「シノさんっ!!」
彼の懐から飛び出してきた狐のぬいぐるみは、体を跳ねさせて私の胸へと飛び込んだ。彼の体温で少しぬくい布の塊は一生懸命身体を私に擦り付ける。
「よかった!シノさん!!見捨てられたのかと!」
「アホウ!!妾がどれだけ心配したかっ!!」
お主ひとりではダメだと、そこな獣を呼びつけたのじゃ。なんてシノさんの言葉にわたしは彼を見上げる。彼は少し呆れた顔でシノさんを見てため息をついた。これが獣というのなら、随分と美しい。シノさんの分身ではないな、というのは直感でわかったけれど、やはり狐というかなんというか、どこか雰囲気が似ていた。
「あの……お知り合い、なんですか?」
「……」
答える気は無いらしい。
金の瞳で私を見据えた妖狐は、白い腕をついと伸ばした。指先が私の頬に触れて微かな痛みとともに離れていく。白い指の腹を汚した血で、私は自分が怪我をしているのだと気づいた。
「あれ、いつの間に…」
獣に弾き飛ばされた時に擦りむいたらしい。そっと頬に触れると確かに擦り傷が付いていた。
「し、しまった…」
家族に不審がられてしまう!!良く見たら足もすりむいてぼろぼろだし、打撲の青あざもできている。背中はじんじんと痛いし肩もちょっと違和感がある。これはまずい、せめて目立つ傷だけでも消さないと志保利さんを心配させてしまう。
「………使え」
「えっ?」
ぽん、と投げ出された何かを受け止める。やはり人肌でぬるいそれは、プラスチックケースのようだった。スーパーとかで売っている、旅行用にクリームを詰めたりする手のひらサイズの容器。美しい妖狐に似合わない所帯染みたそれには、緑色のペースト状の何かが入っていた。
「傷薬だ、使え」
「あ、ありがとうございます……」
怪しいと思ったけれど、シノさんが何も言わないということはきっと安全なのだろう。どこの誰かは知らないけれど、いい人だ。クリーム容器を大事にポケットにしまって、服の上から押さえる。胸がぽかぽかする心地だ。
顔をあげると、銀の狐は黄金に輝く瞳を少しだけ細めた。そのままふいと背を向けて、長い毛を夜風に揺らして跳び上がる。その銀が夜の帳に消えていくまで、わたしはじっと彼を見ていた。
「笑った…?」
どこかで見たことがある気のする、そんな笑顔だった。


じゃあシノさん、お留守番お願い。なんて言っては出ていった。昨晩の傷など痕すら残さなかった娘は、今日も快活そうな笑顔で学校へと向かっていった。学校などというあの騒がしい学舎の価値をシノはよくわからなかったが、まぁが楽しそうなのだから良いことなのだろう。

「……あんまり危ないことさせるのやめてくれませんか」
「……ふん、貴様に頼るのは昨夜が最後よ」
妖狐蔵馬──の兄は、シノのそんな態度にクスリと笑った。音も無く妹の部屋に侵入してくるなど、不埒な男だ。そういうところが嫌いなのだ。
「冷たいこと言いますね」
なら、少し経験を積めばあの程度楽に倒せる。貴様を呼んだのは保険よ」
「保険、ねぇ」
単純な能力値であれば、はそこらへんの妖怪には負けない。ましてや己の分身のひとつなんて簡単に切ることが出来るだろう。昨夜苦戦したのは単に甘えと経験不足。それを責めるつもりはないが、いらぬ手間が増えたのは確かだった。
「まぁ、あなたの力添えがあれば強いのは当たり前ですがね。妖狐葛の葉」
「フン、まさかの令兄が妖狐蔵馬とは思わなんだ」
悪い妖怪ではないと思っていた。の危機を知らせれば助けれくれるだろうには。しかしまさか伝説の極悪盗賊妖狐蔵馬とは。己とて伝説級の妖狐であると自負してはいたが、こうして力の散り散りになっているシノ──信太の狐──と彼とでは、当然彼の方が強い。
強くて極悪。
「どんなつもりかは知らんが、貴様が妖狐蔵馬と知っておれば頼りはせんかった。この家族になにかすれば、殺すぞ」
「オレを倒せるだけの力があるのなら、ご自由に」
そろそろ遅刻するので行きますよ、なんて澄ませた顔をして彼はシノに背を向ける。
「……オレだって、キミの心づもりによってはただじゃ置かないつもりだ」
それでも、妹に憑いたものがそう悪い者とは思いませんがね、オレは。
瞳を細めて笑う男を、シノは苦い気持ちで見つめたけれど、ぬいぐるみの身体では表情など作れなかった。






(リクエスト/幽白しか知りませんので、幽白が増えると嬉しいです。)
リクの自由さにかまけて書きたかっただけです…。すみません…。
南野秀一くん、こっそり魔法少女してる妹を素知らぬふりして助ける兄、似合いすぎません?
あと中の人ネタ的に言えばカーキャプさくらちゃんの新刊可愛さ振り切れててアニメ楽しみです。
リクエストありがとうございました!